【いざ鎌倉(19)】将軍の嫁探し
今回からヘッダーを変えました。
そろそろ後半戦な感じです。全何回か決めているわけではありませんが。
さて前回は京都守護・平賀朝雅と三日平氏の乱の解説でした。
非常に好評でして早くも閲覧数が歴代2位の記事となっております。ありがとうございます。
今回は再び話を畿内周辺から鎌倉へと戻します。
将軍実朝の嫁探し
元久元(1204)年の時点で将軍実朝は数えで13歳。
まだ妻を迎えていません。
先代・頼家の男子が3名存命でしたが、頼家を力づくで排除した以上、その子らが将軍職を継承することは望ましいことではないと幕府首脳は当然考えたでしょう。
やはり実朝の子が継承するのが筋であり、早期の後継者確保のためにも幕府は実朝の婚姻の検討に入ります。
当初、候補となったのは足利義兼の娘でした
名でわかるとおり、後に室町幕府の将軍家となる足利氏の祖先です。
河内源氏の一門であり、血統上は問題ない名門です。
しかし、結局この案は立ち消えとなり、実朝の正室は京から迎えることになりました。
足利義兼はこの時すでに他界していましたが、その正室は北条時政の娘です。
実朝が足利家から嫁を迎えれば嫁いだ時政の娘も将軍家正室の母として力を持つことになります。
ただ、この女性は政子、義時と同じく時政の先妻の娘。
時政は後妻牧の方との間に生まれた政範や娘婿の平賀朝雅たちを重用していましたので、先妻との子らが力を持つことを良しとしていません。
足利義兼の娘の嫁入りが避けられたのは、北条氏内の対立が影響した可能性が考えられるでしょう(ただ、嫁入りが検討された女子の母親は時政の娘とは別の女性という説もある)。
なお、実朝の婚姻に先んじて元久元(1204)年7月18日、先代将軍・源頼家が幽閉先の伊豆国修善寺で殺害されました。入浴中を襲撃され、紐で首を絞め、陰嚢(金〇袋)をつかまれた上で刺殺されるという凄惨な最期だったと『愚管抄』は伝えます。享年23歳。
実朝御台所の選定
幕府は実朝の御台所(正室)の選定を朝廷に申し入れます。
京での交渉役は時政の娘婿で後鳥羽院の信頼も厚い京都守護・平賀朝雅が務めました。
幕府の要請に応え、朝廷が選定したのが後鳥羽院の寵臣・坊門信清の娘でした。
この女性は後鳥羽院の従兄妹であり、寵愛する女房・坊門局と姉妹でもありました。
後鳥羽院は実朝と幕府を重視したこれ以上ない女性を選び、幕府側の実朝、時政、政子誰にとっても異論のない決定となりました。
幕府は早速、容貌に優れた御家人を選抜し、御台所を迎えるための使者として京へ送ります。
その中には時政と牧の方の子・北条政範も含まれていました。
北条時政と牧の方の悲嘆
京から後鳥羽院に近い女性を将軍の御台所として迎える。
そのための使節は幕府の一層の繁栄をもたらす役目を担っていました
しかし、その使節から鎌倉に伝える報は慶事とは縁遠いものが続くこととなります。
11月5日、上洛した北条政範が病により京で他界します。
道中で発病した政範はなんとか京にたどり着きましたが、回復せずそのまま亡くなりました。
時政と後妻・牧の方にとって、2人の間に生まれた唯一の男子であり、夫妻は深い悲しみに襲われます。
先妻の子・義時を「北条義時」ではなく、「江間義時」として扱っていた時政は政範を嫡男として扱っていたと考えられます。
この時、42歳の北条義時が従五位下相模守、16歳の政範が従五位下左馬権助と年齢差の割に位階に差がないことからも父・時政の扱いの差は歴然です。
将来の北条氏を背負って立つはずの後継者の突然の死でした。
牧の方にとっては最愛の息子を失ったことに加えて、将来の身分と生活の保障を失ったことも意味しました。
時政が亡くなった後、後家として北条氏の家政で力を保持するには唯一の男子である政範は必須の存在です。先妻の子で潜在的に対立する政子・義時が取り仕切る北条氏となれば牧の方に居場所はありません。
平賀朝雅vs畠山重保の背景
さらに11月20日、時政・牧の方夫妻の娘婿で京都守護の平賀朝雅と将軍御台所を迎える使節の一人・畠山重保が酒席で激しい口論となります。
口論の原因はわかりません。
ただ、前回解説した通り平賀朝雅は信濃源氏の血を引く源氏一門、かつ幕府のみならず後鳥羽院からも高く評価される今や飛ぶ鳥を落とす勢いの幕府高官です。対する畠山重保は、幕府創設の功臣・畠山重忠の息子。次代の幕府を担う若手武士という立場であり、朝雅と対等に口論できるような立場ではありません。
同席した御家人たちの仲裁でその場は収まりましたが、朝雅は目下の人間に愚弄されたと強い恨みを抱くようになります。
京でも知られた存在となった朝雅からすれば「田舎者の三下が舐めた口をききやがって」と感じたことでしょう。
口論の原因は伝わっていませんが、両者が対立する要因を探ってみましょう。
まずは武蔵国の情勢が1つの要因として考えられます。
武蔵国に勢力を持っていた比企氏の滅亡(名前の通り現在の埼玉県比企郡周辺が本拠)と武蔵守だった平賀朝雅の上洛により武蔵国の政治は転換期にありました。
上洛した朝雅に代わって国務を代行したのが北条時政であり、北条氏は武蔵国への影響力を強めていました。
一方、畠山氏も武蔵国の豪族。武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を本拠としており、さらに頼朝期から当主・畠山重忠は武蔵国留守所惣検校職として武蔵国内の御家人を統括する立場にありました。畠山氏としては武蔵国に浸透してくる北条氏に神経質になっていたところですから、酒の勢いもあって畠山重保が時政の娘婿・平賀朝雅に食ってかかるというのはありそうな話です。
あと、これは「またか」という話になりそうですが、畠山重保の母親も実は北条時政の娘と伝わります。でもこの女性は時政と牧の方の娘ではなく、先妻の娘。
北条時政vs政子・義時の親子対立の代理戦争という側面も1つのポイントと考えて良さそうです。
牧の方の精神状態
牧の方は時政との最愛の息子を失い、それに伴って将来の自身の身分保障も失うこととなりました。
そんな中、京から飛び込んできた娘婿・平賀朝雅が格下の畠山重保に愚弄されたとの一報。
本来、無関係のそれぞれの事象は不安定な牧の方の心の内で結びつくこととなり、牧の方のやりきれない感情は畠山重忠・重保親子へと向けられることとなります。
このことが次なる幕府の政変を呼び起こすこととなります。
次回予告
次回、「畠山重忠の乱」。
畠山重忠の人物伝も兼ねたような内容となります。
余談
冒頭にも書いた通り前回の第18回は大変好評でした。読んでいただきましてありがとうございます。
ちなみに現時点で最も読まれているのは第2回でして、18回は公開から1週間経たずにこれに迫っております。
なお最も読まれていないのが第15回です。
私は結構、気に入っている記事なのですが(苦笑)
noteを書いてて悩ましいのは続き物の連載記事でありながら、閲覧数にそこそこバラつきがあるところ。
上記の第2回と15回で言えば閲覧数はおよそ5倍違います。
連載で読まず、単発で読んでいただいている方も多いようなので、そういった方々への配慮からどうしても内容が重複し、以前書いたことをあらためて説明していることがあります。
「北条時政と後妻である牧の方夫妻は先妻の子である政子・義時とは微妙な関係だった」という毎回読んでいただいている方にとっては耳にタコな話を何度も繰り返しているのはそのためです。
連載で読んでいただいている方には「またかよ」と感じるくどい説明は今後もあるかと思いますが、ご容赦いただけますと幸いです。