【いざ鎌倉(43)】幕府軍、出陣
後鳥羽院の官軍が、幕府の京都守護・伊賀光季を攻めたことで遂に戦が始まります。
光季を討った後鳥羽院は北条義時追討の院宣を下し、関東の御家人を味方に引き入れて幕府を分断することを狙いました。
しかし、院宣は御家人たちに手渡される前に北条義時によって回収され、後鳥羽院の狙いは失敗。
幕府首脳は、後鳥羽院の北条義時追討を目的とした院宣を隠匿し、これは幕府を守るための戦いであると政子が演説することで結束を固めました。
戦争目的をすり替える情報戦により、幕府は事前に後鳥羽院の計画を察知できなかった不利を覆しました。
幕府軍、攻めるか?守るか?
政子の演説で御家人の結束を固めた幕府首脳部は、北条義時邸で軍議に入りました。
武士たちが、足柄・箱根の関所の守りを固め、本拠地である関東で官軍を迎撃することを主張する中、これに反対したのが京を出自とする政所別当・大江広元です。
大江広元
広元は、運を天に任せ、京へ攻め上るべきだと主張しました。
何となく武士の方が積極策を主張しそうなイメージを持ちますが、この軍議において積極策を主張したのは官人の大江広元です。
広元が積極策を主張したのは、政子の演説による団結の効果は限定的だということがわかっていたからです。広元は、関東迎撃での長期戦となると、後鳥羽院の権威と策によって御家人の結束が乱されることを危惧しました。また、関東の切り崩しに失敗した官軍は、まだ十分な兵を集められていないという考えもあったでしょう。
時間は幕府ではなく、後鳥羽院に味方をするというのが広元の考えでした。
決断を委ねられた鎌倉殿・北条政子は、広元の意見を採用し、幕府軍はすみやかに京へ攻め上ることに決まりました。
北条義時は、直ちに信濃・遠江以東の御家人に出陣を命じました。
北条泰時の出陣
2日後の5月21日、幕府首脳は再び軍議を行います。
鎌倉を離れ、上洛して決戦に臨むことについて、御家人たちに不安が広がり、再考するよう異議が唱えられたからでした。
大江広元の懸念の通り、北条政子の演説の効果は短期間の限定的であったことがわかります。
広元は、東国武士の中から離反者が出ることを恐れ、軍勢の集結を待たずに北条泰時一人でも出陣するべきと主張しました。
政子は、自邸で療養中の問注所執事・三善康信を招き、意見を求めたところ広元と同意見であったため、北条泰時の出陣が決まります。
翌22日卯の刻(午前6時頃)、小雨が降る中、北条泰時は鎌倉を出陣しました。
付き従うのは北条時氏(泰時嫡男)、北条有時(義時四男)、金沢実泰(義時六男)の北条一族と北条配下の武士わずか18騎でした。
同日、泰時を追うように北条時房、足利義氏、三浦義村・泰村らも次々と鎌倉を出陣していきました。
翌23日、史書『増鏡』によると北条泰時は一人鎌倉に戻り、後鳥羽院が自ら前線に出陣してきた場合の対応を父・義時に尋ねたと伝わります。
義時は泰時の考えを誉め、「上皇には弓は引けない。その場合は、兜を脱ぎ、弓の弦を切って降伏するように」と指示しました。
幕府の大軍
幕府の戦略は「バスに乗り遅れるな」であったと言えるでしょう。
後鳥羽院の軍勢と戦って良いのか?
朝敵になって大丈夫なのか?
戦って勝てるのか?
こういったことを御家人に考えさせる暇を与えない。
源頼朝によってつくられた経済的保証制度、つまりは幕府を守るためには戦うしかない、「バスに乗り遅れるな」という気運をつくりあげ、一気に戦場へと送り込む。
最初に気運をつくるのが政子の役割でした。演説で御家人たちに、戦うしかないという「魔法」をかける。
そして、その効果が切れる前に一気呵成に御家人たちを鎌倉から送り出すのが北条泰時の役割ですね。
幕府の次代のエースである泰時に先陣を切らせることで、御家人たちに早く自分も続かないといけないという思いを抱かせる。
泰時が出陣した5月22日から25日にかけて御家人たちは次々と出陣し、その軍勢は雪ダルマ式に膨れ上がり、19万騎となったと『吾妻鑑』は伝えます。
この数字はさすがに盛られているとは思いますが、東国武士たちが雪崩を打って鎌倉を出陣していったことは間違いありません。
大江広元発案の幕府の戦略は見事に成功しました。
三道から攻め上る幕府軍
鎌倉を出撃した幕府軍は3つの軍勢に分かれて京へ進撃しました。
陣容を慈光寺本『承久記』に基づいて解説していきます。
東海道軍(10万騎)
先陣・北条時房、二陣・北条泰時、三陣・足利義氏、四陣・天野政景、五陣・木内胤朝、千葉泰胤、(総大将?三浦義村)
兵力と指揮する御家人の面々から幕府軍の主力と判断できる東海道軍。
華々しく先陣を切って出撃した北条泰時(義時嫡男)ですが、幕府内の席次は北条時房(義時弟)の方が上です。
後鳥羽院は北条時房を味方に引き入れるつもりでしたが失敗。
東海道軍は、時房・泰時の両名が総大将であったと言われますが、実質的な総大将は泰時の舅・三浦義村であったとの見解もあります。
三陣・足利義氏は後に室町幕府を開く足利尊氏の御先祖。
母親が北条時政の娘であり、北条氏と縁戚でした。
四陣の天野政景は三浦義村の姉妹の夫。一軍を率いる格とは言えず、北条泰時の補佐に回った三浦義村の代行としての務めであったとの見解があります。
『吾妻鑑』では四陣の将軍は三浦義村。
五陣・木内胤朝、千葉泰胤はともに源頼朝を挙兵当初から支えた千葉一門。千葉氏の若き惣領・千葉胤綱に代わって両名が軍を指揮したと見られます。
東山道軍(5万騎)
武田信光、小笠原長清
鎌倉から武蔵・甲斐・信濃を進軍する東山道軍の主力は甲斐源氏。
甲斐源氏については第6回で解説しました。
源平の戦いの序盤戦では源頼朝とは別勢力として動いた甲斐源氏の中でも、源頼朝と当初から親密であったのが武田信光。一門が徹底的に頼朝に弾圧された末に、兄弟の四男であった信光が武田家惣領となりました。
戦国大名・武田信玄の御先祖です。
小笠原長清は信光の従兄弟です。
北陸道軍(7万騎)
名越朝時
北上し、北陸道を進む軍勢を指揮したのは北条義時の次男・名越朝時。母が比企氏出身であったため、比企氏滅亡後に母は義時と離縁しています。母の身分が低い異母兄・泰時にはライバル意識のようなものがあり、兄弟仲は不仲でした。祖父・北条時政の名越の屋敷を引き継いでいたこともあり、我こそが北条家の本流という意識があったとも言われます。
この大軍でもなお兵が足りぬ時は北条重時(義時三男)が大将軍として援軍を指揮し、さらには北条義時自身も兵を率いて上洛する。
その上で敗れれば、鎌倉に退いて決戦を挑む。さらに鎌倉でも敗北すれば、陸奥に下って戦う。
こうした計画の上で三道の幕府軍は京を目指しました。
幕府軍の進撃、後鳥羽院に伝わる
京の後鳥羽院は、幕府と大規模な戦争になるなんて考えていなかったと思われます。
御家人たちに下した院宣・官宣旨によって、一方的に北条義時を殺害して一件落着となるはずでした。
後鳥羽院は、幕府軍が上洛を開始した時点では、義時殺害の吉報を今や遅しと待っていたはずです。後鳥羽院を囲む順徳院や近臣たちもそうだったでしょう。
しかし、京へ届くのは幕府の大軍が攻め上ってくるという驚くべき情報となります。
幕府軍が上洛しようとしているとの第一報は5月26日、防衛のため美濃に派遣していた藤原秀澄より届けられました。
続いて5月29日、北条泰時・時房が大軍を率いて上洛の途上にあるとの急報が届きます。3日経って情報が具体的になりました。
そして6月1日、院宣を持たせていた押松が幕府に釈放されて京へ戻りました。押松は後鳥羽院への報告として「三道より大軍を上洛させますので、西国の武士を召集し、御簾の中より合戦をご覧ください」という義時からの言付けを述べました。
事実上の北条義時による宣戦布告です。
後鳥羽院は、予想外の事態に狼狽する公家たちを叱咤し、官軍に防戦のための出陣を命じます。
これにより、後鳥羽院の官軍と幕府軍は合戦で雌雄を決することが避けられぬ事態となりました。
次回予告
幕府軍接近の急報を聞き、急ぎ官軍に防戦を命じた後鳥羽院。
総大将を務める藤原秀康は木曽川沿いに防衛線を敷く。
兵力の分散配備を勇将・山田重忠は批判するが、軍を指揮する藤原兄弟がこれを改めることはなかった。
木曽川を挟んで対峙する官軍と幕府軍。
後鳥羽院の理想か。幕府の論理か。
両軍がついに激突する。
次回「美濃・尾張の合戦」。