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真夜中に 白いしるし


月が沈殿して、その上澄みだけをさらさらと掬い取った透明な夜。いちにちの終わりがこんなにもホッとするものだと、怒りの向こう側へ来て思う。「やっと終わった。」という安堵。それは、しまい込んでいたむかしの古傷をなぞるようにやさしく広がった。

眠れない。

どうしようもない。

私は、布団の中から這い出て、夜の底にストンと立った。

こういうときは本を読もう。

濃紺に順応した眼で、人差し指の腹を本の背表紙になじませて目をつむる。指を横へやさしくスライドさせる。ねこの頭からしっぽをなでるように。そして、安定のドラムロールを口にする。

「ドゥルルルルルルル(結構リアル)。ジャンッ!」

そして、目を開ける。ゆっくりと本を取り出してから照明を点けた。ぐらっと眩しさを感じると眼の奥がジンジンして、夜に溶けていた形や色が発光しはじめる。手元の本を見ると、小説『白いしるし』だった。




「おおお。」と感嘆。私は西加奈子さんの小説が好きなのです。めっちゃ好きが「おおお。」と運命詞(そんなんない)になって口から出たのは、シンプルにうれしかったから。私を一瞬でさらってくれる。どこまでも遠くへ連れて行ってくれる。トリップよりダイブという感じが「おおお。」なのだ。

『白いしるし』の単行本の装丁は小説のストーリーと重なり和を成して素敵だけど、私は断然、文庫の装丁が私の芯をゆさぶる。いい。ほんまにいい。

私は、恋愛小説はあまり読まないけれど、西加奈子さんの書く恋愛小説を読んでみたくてこの本を手にしたときを思い出す。

この小説は時代的にパソコンで入力しているだろう。けれど、私には手書きに思える。筆圧の濃ゆい鉛筆で書かれたような気がしてならないのだ。HBじゃなくて2Bで。真っ白な紙の上へごっつい濃ゆい字で書かれたような圧巻。紙が凹むくらいの筆圧で書いて、読む者の目に焼きつく文章は、ぐらぐら煮えている。いまの時代、小説の執筆という行為は「入力」に近い。機械を通して言葉を灼く。しかし、この小説は「入力」では補いきれない生々しい筆圧がある。

この本ならば、ここのところ本を読まなかった私の閉じた世界をこじ開けてくれると思った。読まなかったというよりも読めなかったのだけど。いろいろありすぎて。脳みその入力口が詰まって、ストーリーや知識が入るスペースがなかったという言い訳を、ザザザッと貫いてくれるのは西加奈子さんなのだ。

私は装丁を眺めてから、ゆっくりと読みはじめた。

小説は匂いがない。匂いがないはずなのに、西加奈子さんの小説は、文章のすきまから日常のささやかな匂いがする。文章から映し出される登場人物の表情、句読点で呼吸、仕草の動的と静的、時代、環境、文化、言葉の要素から、人物の過去や好悪や癖や嘘や無関心や抑圧された感情や違和感まで、透き通るように匂いを放つ瞬間を、私は目で嗅ぎ取っている。

小説の中のできごとは、わたしの視野と重なってゆく。体はストーリーの枠の外から傍観して、小説の世界では決して存在しないのに、私は誰よりもストーリーを把握できる場所でいる。意識の有無の境目を行き来する。透明人間になる。透明だから夏目と視界が重なってゆく。

私は、どんどんと小説へ埋没する。

この小説のあらすじは裏表紙の内容紹介を拝借します。


女32歳、独身。誰かにのめりこんで傷つくことを恐れ、恋を遠ざけていた夏目。間島の絵を一目見た瞬間、心は波立ち、持っていかれてしまう。走り出した恋に夢中の夏目と裏腹に、けして彼女だけのものにならない間島。触れるたび、募る想いに痛みは増して、夏目は笑えなくなったー。恋の終わりを知ることは、人を強くしてくれるのだろうか?ひりつく記憶が身体を貫く、超全身恋愛小説。

『白いしるし』内容紹介(裏表紙より)



この小説はいろいろな形の恋が描かれている。恋の形は決してひとつではない。その人の形をした恋が夏目の視界を通して現れている。

恋は愛とはつながらない。恋が一方通行で、愛が対面通行に似ている。恋に落ちると、好きな人に触れる時間はたった数日でも、それは永遠の稲妻となる。好きな人を想うだけで常に落雷してしまう。それが恋。枯れてゆくものが恋。愛は腐る。腐ると案外、ぬったりと臭う。

私は夏目のことを主人公と単純に呼びたくない。もっと難しい存在のはず。でも一人称の主人公という形骸化した言葉しか出てこない。私が夏目の時間を追体験しているからだろうか、周囲の人たちも色鮮やかに浮かびあがる。

私も歳という枷をして生きていたことがある。32歳、独身、とか。社会の流れが作るものにヤキモキしたり、イライラしたり、否定したいのに従順したことも。その頃の濃密な感覚が速度を増してリンクしてゆくのだ。

あの恋に落ちる瞬間。淡いのに速い。端的に「好きや。」と思うあの速度。その瞬間がビュンビュンと胸に迫る。私は夏目を追体験しながら苦しかった。

まじま。

まじま。

描写が濡れたように色を濃ゆく放ち、空間の匂いが強くなる。

ほかの無数の言葉を手放して「まじまさんのことが好き。」という夏目のまっすぐさが苦しくなる。夏目の視線が、言葉が、行動が、苦しい。

恋に落ちたら助からない。落下しながら、苦しい、辛い、会いたい、触れたいが強烈に体を貫いてゆく。近づけば苦しい。苦しいのに離れられない。その感情を救うように登場する白。白いしるしの意味。それが夏目を脅かしもするし、糧にもする。焼けて灼けて、真っ赤になって、縮れて、煌々と白く萌芽する恋。触れるとまじまの深淵の存在を知ってしまう。知っていたはずなのに止められなかった。その感覚に私はひりひりとした。

そのひりひりへ、ストーリーの終盤の塚本美登里のかなしいのにうつくしい言葉がハッと咲く。


彼は、水みたいでした。こちらが思う通りに動きました。会いたいといえば会ってくれたし、助けて欲しいといえば助けてくれた。だからといって、与しやすいのとは違いました。まったく。水の中に手を入れれば、その形に添うし、斜めにすれば、さあっと流れていくけれど、水の中では決して息が出来ない。彼といると、彼を自由に出来る分、私は不自由でした。ずっと。つまり彼は、やっぱり、私のことなんて、微塵も愛してはいなかったんです。そんなこと、始まる前から分かっていたことなのに。

P146〜P147


塚本美登里のどこか達観しているのに、抗えない本能に振り回される気分が理解できて、身に沁みる。恋を水に比喩させる感覚がすごくいい。切実に伝わってくる。その言葉しかない気すらする。

恋の因数分解の解は案外シンプルだ。叶わないから焦がれる。焦がれるから魂に残るのだろう。そして、それでも追ってしまう、あの速度はひとを狂わせる。私も狂ったことがあるから、わかる。

恋の終わりを知ることは、人を強くしてくれるのか──それは人によって違う。幸せなことなのか不幸なことなのか、進化なのか退化なのか、その人の選択次第だ。本人が幸せならば他人から見て不幸であっても、その恋は幸せだったのだ。他人が人の恋を幸せか不幸か、二者択一で秤にかけようなんざ野暮だ。恋は苦しくもあり楽しくもあり、その両極を往来していたら、また別の違う感情へ一気に振り切る勢いがあるものだ。簡単には計測できない。だから、恋の後口くらいは自由に選択させれくれ、と私は思う。恋の残骸は、他人にたやすく決められたくない領域だから。

私は、相反する感情がいつくもたゆたいながら、ラストの場面に熱くなった。

生きてきた道を振り返れば、人それぞれのいろいろな徴がある。夏目の白いしるしは、歳を重ねた夏目が振り返っても、消えることなく鮮やかに発光すると思う。そうあって欲しい。

私は、本を閉じた。閉じた私の先は開いていた。いろいろな苦悩も憎しみすら徴にして生きてやろうと思えた。

私は余韻のまま深く深く呼吸をすると、意識は明け方の白に溶けていった。


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