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「星の王子さま」の死ついて:第一次資料で読む

マダムスノウから「星の王子さまの死」についての電話

先日サンテグジュペリの「星の王子さま」に登場するトルコの天文学者と小惑星B612についてポスコロ的な立場で旧植民地から読んで見るという記事を書いてみました。その終わりの方でアメブロのマダムスノウの記事を紹介させていただきました。

すると翌日、マダムスノウから電話がかかってきました。スノウさんはアメブロでは10年くらい詩を掲載し続けてるベテランの人気ブロガーなのですが、私にとってはリアルのお友達なので電話です。

マダムスノウのキャラが崩壊しそうで申し訳ないのですが、要旨はこんな感じでした。

トルコの記事読みました。面白かったです。記事紹介してくれたんですね。ありがとう。あなたのNoteから来てくれた方が何人かいたみたい。ところで、私の記事のコメント欄まで全部読みましたか。星の王子さまの終わりをどう解釈するかで読者と見解を交わしました。

マダムスノウが提供してくれた話題というのは、蛇に噛まれて星の王子さまが消えたシーン、そして語り手による後日談を含む、星の王子さまの最後の部分をどう解釈するかでした。ひねくれたことを書いているとはいえ、私にとってもサンテグジュペリは重要な著者なので流布している解釈について言いたいことはあります。先に「星の王子さま」における該当部分を少し引用しておきます。

「ここだよ。ここからは、一人で行かせて」
そう言って、王子さまは座りこんでしまった。こわかったのだ。それからまた話し出した。
「ねえ、ぼくの花 ・・・ ぼくはあの花に責任があるんだ。それに、あの花、とても弱いんだよ! 何にも知らないし、身を守るのに四つしかトゲを持っていないし、そんなトゲ、なんの役にも立たないんだよ ・・・」
僕も座りこんだ。もう立っていられなかったのだ。
「ほら、もう、言うことはないよ ・・・」
それでも、王子さまは少しためらっていた。それから立ち上がって一歩踏み出した。
僕は動くことができなかった。
王子さまの足首の近くに、一筋の黄色い光だけがキラッと光った。王子さまは、ほんのちょっとのあいだ動かなかった。声も出さなかった。そして1本の木が倒れるように、ゆっくりと、くずれ落ちた。まったく音がしなかった。砂漠の砂の上だったから。

そして語り手の後日談。

今では悲しみは少しやわらいだ。つまり、完全になくなったわけではないということだ。でも、王子さまが自分の星に帰っていったことはわかっている。夜が明けると、王子さまのからだがどこにもなかったのだから。持っていけないほど重くはなかったのだ ・・・ 僕は、夜に星の笑い声に耳を澄ますのが、好きになった。まるで 5 億もの小さな鈴が鳴っているみたいだ ・・・
(中略)
空を見上げてごらん。そして「ヒツジはあの花を食べてしまったのか、それとも食べていないのか?」と、自分にたずねてごらん。すると、すべてがどれほど変わってしまうかわかるだろう ・・・
でも、大人たちは誰も、これがどれほど大切なことなのか、けっしてわからないだろう!
これは僕にとって、この世でもっとも美しく、もっとも悲しい景色だ。前のページにあるのと同じだが、しっかりと記憶に残してもらいたいのでもう一度描いた。王子さまが地球に現れたのも、姿を消したのもここなのだ。
もし君たちがいつかアフリカの砂漠を旅することになったら、かならずここだとわかるように、しっかりと見ておいてほしい。そして、ここを通るときには、どうか急がないでほしい。あの星の真下でしばらく立ち止まってほしい。声をたてて笑い、金色の髪で、何をたずねても答えない子どもがやってきたら、君たちには、その子が誰だかわかるだろう。そうしたら、僕をなぐさめてほしい。手紙を書いてほしいのだ。
王子さまが帰ってきたよ、と。

(以上、無料の研究者版、Nishi Kyoji、2017年より→http://www.kenkyusha.co.jp/uploads/suppl/id32745278/The_Little_Prince.pdf)

既存の読み方

スノウさんが言うには、星の王子さまには3種類くらいの主流の解釈があるそうです。ひとつは政治的な読み、ふたつ目はサンテグジュペリ夫婦に着目した読み、みっつ目はキリスト教や哲学の観点からの読みです。ちなみに私の「旧植民地で」は政治的で、スノウさんのは「最後のシーンにキリストを読む」とおっしゃっているので主にキリスト教的な読みに依っているようです。

文芸批評的に分類をすると、内的な論理において読む方法(伝統的な文芸批評)と、外的な文脈や構造から解釈する方法に分類することもできます。政治、夫婦、キリスト教で読むというのは全て後者の方法です。フィクションでもノンフィクションでも、作品を楽しむ上で私がおすすめするのは、まず内的な論理に従って読んで、それから外的な構造を考えてみることです

そして、ここからが歴史家としての発言になるのですが、歴史学は史料の信憑性を評価する様々な基準を教えてくれます。一番初歩的な史料の分類に、第一次史料と第二次資料の区別があります。第一次というのは、直接の当事者が残した史料のことです。第二次史料は、当事者以外の人たちが見聞きした記録、あるいは第一次資料を誰かが解釈した文献などのことです。

この記事でいいたいことは、児童文学なのだからいろいろな読み方があってもいいのだけれど、サンテグジュペリが残した第一次資料が軽視されすぎていないか、ということです。自分の都合の良いように読むのもひとつの方法ですが、著者の文脈を理解する努力も大事です。

主流な解釈の史料批判

さて、星の王子さまのいくつかの解釈の起源を見てみますが、私は「夫婦関係」で読むのは胡散臭いと思ってるんです。夫婦関係で星の王子さまの終わりを読むならば、王子さまの死がサンテグジュペリの妻との別れ(と別世界での再会)を象徴していると読めるのでしょう。

この読み方の起源をたどってみると、「夫婦」というカテゴリーによる解釈は基本的にAdèle Breauxという人が書いた「Saint-Exupery in America, 1942-1943, A Memoir」という本に依拠していることがわかります。アメリカに亡命していた時期のサンテグジュペリに関する回想録ですね。この回想録以外にはアマゾンで検索してもこの人の他の作品は出てきません。

このAdèle Breauxという人はいったい何者なのか。

翻訳者のT.V.F. Cuffeによれば、「アメリカで数カ月間サンテグジュペリの英語の先生を務めた人」だそうです。Cuffeも星の王子さまの紹介文でBreauxの回想録を引用しているのですが、「数ヶ月間英語の先生をした」というのは伝記の著者としては微妙な肩書ではないでしょうか?

私に言わせると、3ヶ月間私にポルトガル語を教えてくれた先生なんて赤の他人です。彼女が私の死後に我が家の「混沌」や「夫婦の不仲」だの「緊迫した空気」だのについて回想録を発表して儲けていたら、ゾンビになって祟ると思います(笑)

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