【小説】親密さの形式
大学一年生の春、演劇サークルに入りたての、新入生公演に向けて稽古中のことだったと思う。
私は演出を担当していて、三年生の先輩が見つけてきた既成の脚本を上演することになっていた。
演出とは、稽古中や演劇作品の責任者。舞台装置の配置を舞台監督(本番中や仕込み、バラシ(公演終了後の片付けのこと)、舞台装置や舞台上の仕掛けの責任者)と大道具と相談したり、小道具や衣装に何が必要かを相談したり、照明や音響の相談をしたり、制作とタイムスケジュールやチケットを何処に置いてもらうかを確認したりする。このように要は、たくさんの人たちにお世話になる人である。
ある日、少し困った相談が来た。稽古中の俳優からである。結婚の挨拶に男の実家に挨拶に来た恋人同士という役どころで、男が女を抱きしめるというシーンで、男の俳優が「抱きしめ方がよく分からない」と、稽古を見守っている我々の方を眺めた。
それは私も分からなかった。
そこで立ち上がったのは二年生の先輩だった。先輩は俳優に向かって話し出した。
「まず、抱きしめる時って、何処に手を置こうか迷うんだよね。だから、こう、相手の方をふわっと、こう(両手で上半身の形を示すようなジェスチャーをつけながら)見ながら何処に手を置くか、最終的には肩と肩甲骨の下くらいに置くんだよ」
と、先輩が軽く見栄を切るかのように喋り終わりの抑揚を上げて口上を切った瞬間、私以外の辺りから囃すような声が上がった。
「いや、自分の人生切り売りすんのが演劇だろぉーーっ」
と、先輩は大きな声を出した。だが、顔はいつも通りの造作で笑っていた。
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当時は皆、先輩に感心を示していたり、ちょっと冷やかしていた気持ちもあり、というこの二点が混ざった上で、あの囃しの声になるのだと感じていた。
今、こういう場面を思い出すともの哀しい気持ちになり、胸が虚ろになり身体が冷たくなるような、遠すぎて自分ではどうしようもないものを相手にしているような心細さを覚える。囃しのような声の中に、もう二つの情緒を、自分の頭の中で再生してみて感じたからである。
それは共感と納得だ。
誰がその声を出していたのかまでは、あまり思い出さないように、私は考えを逸らそうとしている。
私はただただ感心していただけだった。ちょっとは、先輩のサークル外の一面を垣間見えたことにニヤッとしていたかもしれない。だが、私は何より、そうも鮮やかに「抱きしめる」という形式を言葉で示してくれた、その明快さに目が開かれたような気がしたのが、感動したのである。すなわち、その形式を修めた気がしたのだ。
そして、そういう気持ちになれたのは、その形式が言葉で示されたからであろう。
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きっと、あの囃し声の中に人たちは、その形式を私とは違うようにして修めていたのだ。言葉によって形象化された形式ではなく、おぼろげな形式であろう。
当時、私が体験した感動はきっとポピュラーじゃない。彼ら彼女らが体験する感動は、共感や納得は、私には難しい。それが寂しい。
演劇が好きでもなかった私が演劇に惹かれたのは、その形式を言葉で修めることができそう思えたからかもしれない。始めた最初の頃は演技をすることに固執していた。それは、子供が、自分が大人の真似をして喋ることで大人が褒めてくれたり返事をしてくれたりするのが嬉しくて意味も分からず繰り返すことと、同じ思考からだろう、と気がついた。
ただ、演劇をやっている周りの他人たちはもっとすごかったのだ。そりゃそうだ。他人より鈍感な私がやっていて少しマシになるくらいだから、感覚がしっかりしている他人たちがやれば、遥かに水準が高くなるのは当たり前だろう。
彼ら彼女らは形式から発展して、感情をやり取りできているのかもしれない。
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最初は全く違う小説を書くつもりだった。
タイトルも「親密モード」というのにして、全くの創作を書こうと思っていた。どんなに親しい人とでも敬語で話す人の話で、そのせいで他人から敬遠され孤立するのだが、ある日、それは親密さを確認し合うモード(形式、様式)を体得していないせいであり、ならば一緒にそのモードを作りながら交流しましょうという奇特な人が現れる、という物語にしようと思っていた。
了