【日記】相手の身になるということは、どんな状況なのか?
具体的な出来事を書かないので様々な想像をされるかもしれないが、この発言は故意に否定されたり、ましてや怒られたわけでもない。
「あなたがダメなのはコミュニケーションが不得意だからじゃない?」
もし、たとえ、どんなに慕う人から、どれだけ優しく言われたとしても絶対に泣く。
自覚はしていたから注意していたけど、それでもまだまだ、そのようにわざわざ指摘されるほど出来てないんだ、と泣いた。
『自分の努力や対策が間違っていて、それにも関わらず相手に指摘されるまで気がつかなかったんだろ、お前』
『どれだけやっても、コミュニケーションが出来るための機能がもともと歪なうえ、機能を備えた他人はお前に教えてることも機能をつけてやることも出来ないし、機能を持つ他人は機能を持たないお前を本気で相手しないから、お前は決して出来るようにならない』
『今までお前に付き合わされた他人たちは、お前を子どもとしていた。だから、みんな親切だった』
『あー、ここはやっぱり、最初からコミュニケーションが出来る他人たちだけがはたらけるところなんだなぁ。お前はあんなことやるべきじゃなかった』
次々と、過去に殴り書きでバツをつけた。
コミュニケーションが出来るとは、まず相手の話を聞けること、相手の身になって話せること、なのだそうである。
それは、どんな状況なのか? 多分、「状況」という表現を使う時点で、もう見限られるようなものだ。
もしたとえば、相手に今、慰めてもらったとする。そうしたら私は、もちろん感謝するし感激するし、お礼を言いたいから言うだろう。だが、お礼を考える時、「私が感謝していることを相手が納得出来る言い方にしたらいいのかな?」と即物的な思考が挟まってしまい愕然とし、自分に人間味が感じられなくなって悲しいのと、たくさんの他人にこれからも見限られ続けるという不安、不満、恐怖、怨嗟がわいてくる。
「相手の身になる」って、相手を見て、そこからどうなれば、相手がそう納得するのか?
向こうは私を、ここに参加している、として、コミュニケーションが出来ていない、と言ったのだから、私は認識されているのだ、と不満に思う必要はないのに、泣いた。
私の周りには他人がちゃんといる。しかし、私は相手を認識できていない。だか、それは私の人格のせいなのか? たとえば、視力の低い他人が医学に頼らず根性で視力を上げろ、と言われているようなものなのではないか?
だから、直すための努力を徹底的にしようという諦めがつかない。よって、私一人の印象が悪くなるだけだし、相手は何も言わなくなる。
それが死んでも続きそうな不安、不満、恐怖、怨嗟を、今日は書くことだけに流せたから、いいことが出来たと思う。
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