【日記】いい日
図書館に行って良かったと思う。気分が酷い日は新聞を読んでいる人たちの顔が青黒く見えて鬱々となり、たくさんの蔵書を見れば気が遠くなり、勉強をしている人を見れば焦燥を感じと、大変なのだが、今日は悪くない。欲しかった資料も手に入るし、綺麗な写真集も見たし、小説も読んだし。研究に使う論文を読むことも予定に入っていたが、変更した。だが、変えたことに納得したから、それで良かった。そもそも図書館に来た時点でうすうす「もしそうなってもいいや」と思っていたのだろう。妹は自分の部屋は誘惑が多いから勉強できないので図書館に行く、と言っていた。
図書館に行ったら、雑誌もチェックするし、毎日新聞の『りえさん手帖』と高橋源一郎さんの人生相談読みたいし、小説も、新書も、写真集も、あれもこれも……。私に図書館で勉強しろというのは、漫画好きに漫画喫茶のフリー席で勉強しろと言っているようなものである。
昼食に焼きそばを選んだことも、サンダルを履いて行ったこともしっくりと来た。
帰りにコメダ珈琲に寄ったのも、良かった。最初は順番待ちがあって、一人で夕方のイトーヨーカドーのホールにある待合席に座っているのが居心地悪そうで止めようかと思った。だが、『繕い裁つ人』という映画に出てきたチーズケーキに似てるチーズケーキとこの前飲んで気に入ったミルクコーヒーと、この前読めなかった『カーサ ブルータス特別号』のほしよりこ特集が諦めきれなかった。だから、思い切ったら、これで良かったと塩味の豆菓子を食べながら思った。
図書館で読んだ小説は辻村深月さんのものだった。年齢やルッキズムなどに苛まれる女性が出てくるものを二作品。のんびりした気持ちの中に、ちょっと残っている。ゆくゆくはこんな風に苛まれるのだろうか。そして、その片鱗が見えたら自分で今日のようないい日を壊すだろう。
私は、フィクションを人間生活の記録映像のように捉える癖があるようだ。ようだ、というのは、他の本好きやフィクションに接する人たちのことが捉えきれないから断言できない。無茶苦茶なくらい感情移入してるのに、自分のこととはきっちり分けている。人間の気持ちより世界観を構築する。それなのに、そんな人たちの中には現実生活で人の気持ちに敏感な人が多い。
フィクションが人生と違うのは分かる。でも、分かっているくせに、フィクションは人生だ、フィクションは人生と人間を教えてくれる、と言う他人たちの声は不文律である。
フィクションは必ずしも人生じゃないが、日常生活や人の考え、感覚には影響があるだろう。だから、フィクションが日常生活を送る人々のイメージや感覚を利用し、再生産することもある。それは時に大西巨人が言った俗情の結託となり、無関心な人々を、そのイメージや感覚が再生産されることに危機を感じている人の声から守るのだろう。
コメダ珈琲で雑誌を読んでいる時、忙しなさを感じた。早く読まなくてもいいのに、むしろのんびり読みたいのに、というより、のんびり読んだら良さそうな気がして、頁を戸惑いながらめくった。
論文は明日ね。さらに資料も作って。明後日は教員と面談だから……。