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テクノロジーはイデオロギーから遠く離れて ポストモダンからポストヒューマンの時代へ

これまでずっとWeb上でも書籍でも、テクノロジーと近代の問題を通奏低音にして思考を続けてきた。その根底にあって、曲がりなりにもわたし自身の思想に陰に陽に影響を与えてきたものに、思春期から青年期にかけて触れてきたポストモダンの〈理論〉がある。


能力主義社会に取り残されかけている人のためのAI

前回(#51 マスメディアは何に負けたのか? インテリジェンス・トラップとメリトクラシーの地獄)、トランプが勝ったアメリカ大統領選と齋藤元彦氏が再選を果たした兵庫県知事選をみながら、事実を受け入れきれない敗戦側のアメリカの民主党と日本のマスコミがどちらも世間をリードするインテリ層であると自認したがために陥ったインテリジェンス・トラップの視点から読み解き、彼らのバイアスにまみれた意識と思想を生みだした背景としての能力主義(メリトクラシー)社会の問題を探った。
メリトクラシー社会で勝ちあがった者たちの“正義”感は、みずからの努力と苦難によって身につけた実力を根拠としている。そのため、それ以外の人たちとの格差を根深く広げてしまう。数値化、形式化が容易ではないはずのアイデンティティまで能力として測定するに及んで、わたしたちはますます働きづらさ、生きづらさを感じるようになっている。アイデンティティはみずから身につけるもの、経験で得るものであり、努力にかかわる能力になっているのだ。このメリトクラシーを生みだした自由市場経済の浸透をみつつ、市場の自由化が社会の不安定を引き起こすとしたカール・ポランニーとその弟であるマイケル・ポランニーの考えに触れた。
この兄弟は、ソヴィエト式──生物学者・ルイセンコが指導した、イデオロギーに奉仕する──科学理論に基づく管理社会の是非について決裂しており、思想的には決して一致しない。だが、弟ポランニーを有名にした「暗黙知」の考え方は、市場で商品として取引できない擬制商品として「人間」を挙げていた兄ポランニーのそれと通底するものがある。
現在の状況をみれば、さらに顕著で「人間」が擬制商品だとしても、「人材」としては市場で取引されるために能力値、経験値の札がつく。そうした能力値、経験値を高い精度で測定するため、暗黙知の形式知化やデータ化が進められている。
わたしはこの暗黙知の形式知化やデータ化に別の側面をみている。それはメリトクラシーがもたらしている格差を埋めうる可能性である。現在の測定方法では把握することができない人々の多様な能力をデータ化して、人材評価、組織構成を刷新する可能性を秘めていると考えているのだ。
テクノロジーは悪でも脅威でもない。現在の能力主義社会に取り残されかけている人たちを、たとえばAIの活用によってエンパワーして、埋もれていた新しい能力を組織や社会にもたらすとき、わたしたちはこれまでにない知識や道徳を手にして幸福を実現できるかもしれない。

エスタブリッシュメントとポピュリストのはざま

さて、前回の記事ではまた保守VS.リベラルという対立では2つの選挙戦を理解することはできないと述べておいた。負けた側の支持者たちが、勝った側に投票した人たちに対しデマに踊らされた、陰謀論にハマったと、強力なデマゴーグに靡く権威主義的パーソナリティだと批判したわけだが、その権威主義はむしろ負けた側の支持者たちのほうにこそ顕著だったのではないかと論じた。これまでの対立軸で論じているかぎり、みずからの権威主義に盲目にならざるをえないのではないか。反権威主義という権威主義に盲目になってしまうのではないか、と。
そんなこと考えていた矢先に、新しい対立軸を正しく言語化している本を思い出した。奥付をみると刊行からちょうど2年を経ているが、わたしが読んだのは昨年(2023年)の暮れだ。アメリカの著述家であり大学助教授の肩書きもあるマイケル・リンドが書いた『新しい階級闘争—大都市エリートから民主主義を守る』(中野剛志解説/施光恒監訳/寺下滝郎訳/東洋経済)である。
新しい階級闘争を端的に言い表しているのは、「ポピュリストとエスタブリッシュメントの対立は、新しい階級闘争である。」という本書巻頭にある評論家・中野剛志の解説の一節だ。
この対立軸が今回の2つの選挙にあらわれたものと考えるのはやや早計だ。というのも、前回も書いたように、トランプも齋藤氏も都市圏のエリート層からも過半数の得票を得ているのだ。これはエスタブリッシュメントからも票を得たということだ。
裏付けるようなデータも出てきた。noteの記事(「兵庫県知事選で「斎藤氏は被害者だ」と信じたのは誰か:論理的思考能力との関連」)だが、専門家による調査結果だ。
著者の大薗博記氏は、マスコミで主張されていたように、本当に「論理的思考が苦手な人ほど、SNSの情報を信じ、斎藤氏を支持したのか?」という問いを立ててアンケート調査した。その結果、兵庫県内では論理的な思考が得意な人ほど、齋藤氏を被害者と考えるネットメディアの言論を信頼する傾向がでたのだ。これらは回答者の論理能力についてSRSとCRTという2つのテストで「科学的推論能力」「熟慮的思考能力」を測定したうえで、兵庫県知事選について「テレビや新聞などの大手メディアは、斎藤氏について、意図的にネガティブな印象操作をした」といった質問を複数ふくむアンケートが行われた。
2つの論理能力テストのうち、CRT(Cognitive Reflection Test:認知的熟慮性テスト)については後述する内容にも関係してくるので大薗氏の解説を引用しておく。

「バットとボールは合わせて1100円。バットはボールより1000円高い。ではボールはいくら?」などの問題7問から成り、直感的回答(100円)と正解(50円)が異なり、熟慮的思考能力を測る指標として、よく用いられている。

兵庫県知事選で「斎藤氏は被害者だ」と信じたのは誰か: 論理的思考能力との関連

この直感的回答と熟慮された回答とは、心理学者で行動経済学の祖を築いたダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー」のことだ。カーネマンが『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』上下(村井章子訳/ハヤカワ文庫)で、人間の思考を直感的で速い「システム1」と、熟慮的で遅い「システム2」に分け、直感が効率的だが誤りや偏見を生む一方、熟慮は正確だが労力がかかるという二重課程理論を提唱したことは有名だ。
感情的に即答する「システム1」と、理性的に熟考する「システム2」ということもできる。つまり、大薗氏の調査はわずかではあったとしても、より理性的な判断に支えられて齋藤氏は勝利したともいえる。ポピュリストとエスタブリッシュメントの対比でいえば、感情的なのはポピュリスト支持者のほうであり、エスタブリッシュメントは理性的であると考えるのがふつうである。その点からみても「ポピュリストとエスタブリッシュメント」という軸から外れているようだ。
選挙結果に影響を与えたポピュリストといえば齋藤氏より立花孝志氏で異論はないと思うが、大薗氏の調査では立花氏を「論理的」、「頭がいい」と回答した兵庫県民のほうが、そうではないと答えた人より多い。
トランプも従来ではあればリベラルが強い都市圏でも多くの票を稼いだ。テックエリート層からの支持も顕著だった点もあわせ、前回のようなポピュリズムの追い風のみならずエスタブリッシュメントの支持を得ていたことが見えてくる。

インサイダーとアウトサイダーをつなげる中間層

リンドの『新しい階級闘争』では、「テクノクラート新自由主義」によって社会はインサイダーとアウトサイダーに分断されて、それが対立していると論じる。
テクノクラート新自由主義とはつまりメリトクラシー(能力主義)、テクノクラシー(専門家主義)に牽引される社会を表す言葉だが、リンドはこれまでのメリトクラシーの説明と同じく、テクノクラート新自由主義はかつての世襲的階級社会を消滅させたという。生まれつきの格差がない社会で勝てなかった人たちの偏見や不満がポピュリズムの原因になっていると、新自由主義者は考える。ここもメリトクラシーによって生まれた格差に対する上流側の解釈と同じだ。
リンドはかつての階級社会もその社会が生んだイデオロギーも欧米にはすでに存在しないことを前提に、新しい階級闘争を、権力が集中する専門技術者と管理者(経営者)からなる上流層と、低層の国民と移民が構成する労働者層の間に生じているとする。上流層は社会体制のインサイダーとして政治・経済・文化の決定権を握り、労働者層は体制のから疎外されたアウトサイダーとなるしかない。このインサイダーとアウトサイダーの対立が新しい階級闘争の内実なのだ。
インサイダーは、アービトラージの源泉となる経済のグローバル化と自由競争によってますます権力を寡占していき、一方のアウトサイダーはその分だけ社会からの疎外を深めていく。アウトサイダーはローカルに縛られ技術的な進化から取り残されてしまうためだ。
だからこそ、リンドはポピュリズムの台頭を「エリート支配に対する大衆の反発」として説明し、この新しい階級闘争の解決を「民主的多元主義」に求める。
民主的多元主義とは、社会における多様な利益、価値観、アイデンティティを公平に代表し、調整する仕組みを通じて民主主義を再構築するためにリンドが提唱する概念である。

民主的多元主義は、開明なテクノクラートによる少数者支配も、カリスマ性のある民衆の護民官(tribune of the people)による擬似多数者支配も、ともに否定する。というのも、民主的多元主義は、社会というものを、原子化された個人からなる流動的なかたまりではなく、それぞれが独自の制度と代表者を持つ多くの正当な共同体からなる一つの複雑な全体であると考えるからである。

『新しい階級闘争: 大都市エリートから民主主義を守る』

「開明なテクノクラートによる少数者支配」とはインサイダーによるテクノクラート新自由主義社会であり、「カリスマ性のある民衆の護民官による擬似多数者支配」とは多数のアウトサイダーに支持されたポピュリズム政治のことである。
そのうえで、「それぞれが独自の制度と代表者を持つ多くの正当な共同体からなる一つの複雑な全体」という民主的多元主義について、監訳者の施氏は本書あとがきでかつての日本社会を例にする。野口悠紀雄が『1940年体制—さらば戦時経済』(東洋経済新報社)で論じたような、戦時中に挙国一致の企図で形成された資本家と労働者を一体化し戦後も継続した日本型社会民主主義社会を、民主的多元主義の形態だと述べる。
リンドの論と、それを補足して日本に当てはめる施氏の論は、分裂の溝を深めるインサイダーとアウトサイダーをつなげる中間層の重要性を論じる。
これはいささか楽観的かもしれないが、今回の2つの選挙であらわれた都市部エスタブリッシュメントの動きは、こうした中間層の形成の萌といえるのではないか。

道徳の根拠としての功利主義

先に挙げたカーネマンのシステム1とシステム2からなる二重課程理論を道徳的な判断に活用しようと論じるのがハーバード大学心理学科教授であるジョシュア・グリーンだ。
京都生まれのベンジャミン・クリッツァーが著した『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(晶文社)で、グリーンの二重課程理論を下敷きにした「オートモードの道徳」が重要なモチーフになっている。
直感的で速いシステム1によるものを「オートモードの道徳」と呼び、より感情的な判断にもとづく。それに対しシステム2にあたるのが「マニュアルモードの道徳」であり、理性的な判断にもとづく。
クリッツァーは、グリーンが主著で「道徳に関する人間の心理には欠点や限界があるからこそ、道徳に関する理論は、心理的な反応に左右されない理性的なものでなければならない」と主張したと述べる。つまり、システム1ではなくシステム2、オートモードではなくマニュアルモードこそ道徳判断には重要だというわけだ。
熟慮による道徳的判断は一見、それだけで正しいようだが、マニュアルモードに頼ることでかえって不純なファクターを呼び込んで判断が歪む可能性も高くなる。伝統や宗教にもとづいてしまう場合、自然科学の法則や数学の定理に従ってしまう場合、権利を過剰に重視してしまう場合など、グリーンは問題があるとして否定するという。
では、理性的であるために何を指針とするか。それをグリーンは功利主義にとる。そして、クリッツァーも功利主義の現実問題に対するクールにトレードオフを計算する、バランスのとれた判断こそ、もっとも道徳的である方法だと繰り返す。
功利主義は、行為の善悪を「最大多数の最大幸福」という基準で判断する倫理理論として有名だ。ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルが提唱し、強引にまとめればプロセスや姿勢より結果を重視して幸福や快楽を最大化する行動を是とするものである。
わたしはこれまでの記事のなかで、たとえば読書や芸術に対する態度の忌むべきものとして功利主義的なそれを挙げてきた。キャリアのための読書、お金儲けのための芸術といったものの不純や欺瞞をどこか許せなかったのだ。
しかし、クリッツァーの『21世紀の道徳』を読んですこし考えが変わった。クリッツァーは功利主義的な判断がいかに実用的で社会や共同体への貢献を大きくするかを論じていく。現実の世界で絶対的な正解は、ほとんどの場合えられない。そうだとしたら、もっとも利益(幸福)の大きい、あるいは被害(不幸)の小さい結果を客観的に予測して判断するべきなのだ。理性ではなく感情や情緒、それはたとえば思いやりや優しさであったとしても、感情的な判断は主観的になりやすく短絡しやすいのだから。
ボランティアや寄付といった活動を偽善と見なすような感情的な反応と、たとえそれが偽善や独善から発したものであったとしても、困窮する人々をより多く救いうるのは思いやりや優しさという心理ではなく、ボランティアや寄付なのも間違いない。

後天か、先天かの思想

クリッツァーは『21世紀の道徳』で「ダーウィン左翼」論をとりあげている。
左翼あるいはリベラルな思想こそ、生物学的に人間の本性を理解するうえで「進化論」から目を逸らすべきではないという倫理学者、ピーター・シンガーの論を紹介している。人間が本性としてどう判断し活動するか。熟慮なく本性に従った人間は道徳を見失うことになるだろう。だからこそ、人間の本性を深く理解しなければならない。
しかし、左派はダーウィンを嫌ってきた。

左派がダーウィニズムを嫌うもうひとつの理由が、「人がどうあるか決めているのは意識ではない。その逆であり、社会的な存在が意識を規定するのだ。」というマルクスの主張に代表されるような、「人間の本性は変わりうる」という信念である。

『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』

「人間の特徴や傾向は持って生まれたものなどまったくなく後天的に社会や文化によって備わったもの」という主張こそイデオロギーに多分に影響されたものであるとアメリカの心理学者、スティーブン・ピンカーをある意味、有名にした『人間の本性を考える〜心は「空白の石版」か』上中下(NHKブックス)で展開したブランクスレート説の有害性をクリッツァーは紹介している。ここの記事でも以前、ブランクスレート説を論じた際(#14知能はどこまで普遍的か? 「万能の学」としてのAI研究開発)に触れておいた論でもある。自分の文章だが、すこし引いておく。

この考え方(ポストモダン)は、生まれたての赤ん坊の心は真っ白で、環境次第であらゆる可能性が決まっていくとするブランクスレート説を支える。そして、人種や性別、階級など生まれの違いを越えた民主的な世の中をつくる根本でもある。しかし同時に、経験や実績を重んじるあまり成長できないのは努力のためだとする現代的なハラスメントの根っこでもある。

#14知能はどこまで普遍的か? 「万能の学」としてのAI研究開発

なぜ引用したかといえば、ブランクスレート説の有害性としてわたしもこのとき、メリトクラシーがもたらした弊害にもふれていたからだ。
自己の成功は、生まれつきのものではなく、その後の努力と苦難によって得られたという、専門技術者、経営者(管理者)からなる上級層の“正義”感を支え、勝ち残れない人たちより道徳的にも価値があるとするマインド──バイアスか!?──の根底にあるのも、このブランクスレート説である。そうしてみれば、この“正義”感と道徳的価値への自負もイデオロギーに多分に影響されたものといえるかもしれない。
余談めくが、先の引用にも登場する科学的社会主義の創始者であるマルクスは、世界最初の労働階級による国際組織・第一インターナショナルにおいてアナキストのバクーニンと激しく論争したことは有名だ。次節に参照する書籍で、バクーニンがマルクスは人間の本性を知らないと批判したことが紹介されている。
バクーニンはマルクスを権威的な姿勢で人々の支配を志向するような性格だと評したそうだが、本稿のテーマに沿ったマルクス評を残した日本人がいる。ダーウィンに多大なる影響を受けた植物学者で生物学者の南方熊楠だ。
熊楠は次のように書き残している。『在野と独学の近代 ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで』(志村真幸著/中公新書)からの孫引きだが、現代にも通ずる批評かと思うので載せておきたい。

今日の社会論説は多く科学ことに生物学に基礎を置いたものというが、マルクスとかクロポトキンとかの論説に誤謬多き生物伝説に基けるもの多ければ、正確なる生物学上の事実に拠れるにあらざること多し

『在野と独学の近代 ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで』

本稿のテーマそのままの内容といってもいいぐらいかもしれない。なぜ、生物学上の事実を誤謬してしまうのか、それはイデオロギーをおいて他にはない。
ちなみにクロポトキンは革命家でありながら生物学者でもあった人物だ。アナキスト・大杉栄が著書を多く翻訳していることで有名だが、これ以上は脇道に外れられない。

男女にある傾向的な違い

『21世紀の道徳』でクリッツァーが注目するのは、フェミニズム倫理学である。フェミニズム倫理学は、クリッツァーによれば伝統的倫理学が無視してきた「ケア」と「共感」を道徳的な基盤に据え、具体的な人間関係や文脈を重視する。特に女性の経験やジェンダー不平等を分析し、公正で平等な倫理的実践を追求するものだ。
ジェンダーそのものを「後天的に社会や文化によって備わったもの」だとしても、生物学的な性差までも「後天的に社会や文化に」よるものだとする〈理論〉に違和感を示す。多くのフェミニストが男らしさや女らしさに「自然(先天的)」な要素があるかもしれないことを否定する。それなのに、こうした「らしさ」や男女それぞれの「役割」が社会的に構築されるものとして、どのようなプロセスを経て内面化されていくのかについて説得力のある議論はなされてないとクリッツァーはいう。男女にある傾向的な違いが生物的な決定論ではないことに注意を促しつつ、個々の違いや多様性を受け入れたうえで、発生しうる傾向を客観的にとらえる重要性を述べているのだ。
ジェンダーや人種が「社会的な構築物」つまり後天的に社会や文化によって備わったものという考えを思想や社会科学に持ち込んだのはポストモダンの〈理論〉である。
そのことを真正面から論じたのが『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』(ヘレン・プラックローズ、ジェームズ・リンゼイ著/山形浩生、森本正史訳/早川書房)である。バクーニンのマルクス批判を紹介しているのもこの書籍だ。
本書の著者、著述家であるプラックローズと数学者であるリンゼイは哲学者のピーター・ボゴシアンと社会学系学術誌に虚偽の論文を投稿し、受理・掲載させるというスキャンダラスな「不満スタディーズ事件」で有名だ。このデタラメな論文はポストモダンの〈理論〉を引用して執筆され、20本中7本が専門誌の査読を通過している。ちなみに、なぜ〈理論〉と〈〉付きかといえば、『「社会正義」はいつも正しい』の表記に従ってポストモダニズムから派生した社会哲学の取り組みを指したいからだ。
それら論文がどれだけデタラメかといえば、本書の帯を見ればよい。「男性の肛門を性具で貫くことでトランスフォビアを治す」、「フェミニズムの用語で書き換えたヒトラー『わが闘争』」といったものだ。このほかにも「ペニスは実在せず社会構築物である」といった内容のものもある。

生物学はイデオロギーより劣位か

『「社会正義」はいつも正しい』の刊行時、訳者の山形浩生氏の解説が早川書房のWebサイトに掲載され、それが差別的だとして炎上、結果、早川書房は解説記事を公開停止とする対応をとり担当編集者はTwitter上で謝罪した。
日本においてもかくまでデリケートな話題を真正面から批判する「不満スタディーズ事件」は全米で大きな話題を奪い論争を巻き起こした。
本書においてプラックローズとリンゼイは、カルチャラルスタディーズの嚆矢となるポストコロニアルから、クィア論、人種差別、ジェンダースタディーズ、ファットスタディーズをとりあげて、それぞれの〈理論家〉の矛盾を突き、それぞれのスタディーズを批判し、それにもとづくアクティビズムの危険性を論じている。
すべての人々のアイデンティティ(個性、属性)が社会や文化によって構築され、潜在的に押し付けられて内面化したものだという批判は、現在のポリティカルコレクトの動きの根底にある。
パリ五輪における女子ボクシングの2選手の出場資格問題も同様の背景から発生している。男性ホルモンであるテストステロン数値が高いにもかかわらず女性選手としての出場を認めたIOCの措置はさまざまな議論を巻き起こした。
言い方が難しいのだが、ごく一般的に考えれば女性とは認めにくくとも性別が社会構築物であるなら生物学的な判断は不要だ。社会が押し付けた男性を生きてきた女性が、自認するジェンダーで試合出場できなければ、それは差別になる。
フランスのフェミニズムとフーコー、デリダといったポストモダンの思想の影響を大きくうけたアメリカ人哲学者、ジュディス・バトラーは、ジェンダーと性はまったく別のもので、必然的な相関性をもたず、ジェンダーは完全に社会的に構築されたものであるとした。
バトラーはこれをもとに有名な「ジェンダー行為遂行性(パフォーマビリティ)」という理論を打ち立てた。ジェンダーは自然的な「本性」ではなく、繰り返し行われる社会的・文化的な行動によって「構築された」ものであって、言語や行動によって演じられるものだとする。行為遂行性ということは単なる表現ではなく、実態をつくりあげる(構築する)ものであるということだ。わたしには要約が困難な概念なのだが、誤解を恐れず蛮勇を奮っていえば、バトラーのいうジェンダーとはつまり伝統や規範といった社会の権力構造に押し付けられて演じるうちにつくりあげられたものである。だから、変更可能なものであり、それは多様性をもちうるものである。
『「社会正義」はいつも正しい』の著者たちは、バトラーが生物学的な性さえも文化的構築物以外のなにものでもないのではないかと疑問視しているとして、その論について次のように述べる。少し長い引用になる。

私たちが「女性」を現実の生物学的分類とする考え方自体が、女性であるとはどういうことかという「一貫性を持つ不変の」概念を意図せずして作り上げるという結果をもたらしているのでは、ということだ。
 つまりバトラーにとって、「女性」など一貫性を持つ不変の分類の存在自体が、全体主義的で抑圧的な言説につながる。ほとんどの人は、正当にもこんな結論をバカげたものと見なすが、彼女のクィア〈理論〉はこうした分類への抵抗と転覆に依拠している。彼女が本気でこれを論じている証拠として、当人たちが的確ではない、あるいは正確な説明になっていないと感じているジェンダーといった分類に人々をはめ込むことは、一種の分類化の暴力だと彼女は述べている。バトラーに言わせると、アクティビズムと学術研究はこの「暴力」の明らかな害を最小化するために、これらの言説を撹乱しなければならない。

『「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』

ここに至れば、クリッツァーが、生物学的知見がイデオロギーより劣位におかれている状況が現れているというのがわかる。これらは研究ではなく運動そのものだ。ルイセンコがソヴィエトにおいてそうあるべきと述べたように、科学や事実がイデオロギーに奉仕するものになっているわけである。
わたしが面白いのは、倫理における進化論や功利主義の再評価を論じるクリッツァーの考え方は、ポストモダン〈理論〉が充満してイデオロギーで息苦しくなった社会に、ポストモダンが退けてきた啓蒙主義の再評価を求める点だ。

「知」はどこまで相対的か

「不満スタディーズ事件」は、「第二のソーカル事件」、「ソーカル二乗」としても名高い。よく知られているように「ソーカル事件」とは、1996年に物理学者アラン・ソーカルがポストモダン思想分野の学術誌『ソーシャル・テキスト』に、意図的に内容が非科学的でナンセンスな論文を投稿して始まった一連の出来事をいう。
論文は「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」というタイトルで、難解な用語やポストモダン理論を引用し、科学的根拠を欠いた、専門家にはすぐに嘘とわかるフィクションで構成されていた。論文は査読を通過して掲載された直後にソーカルはこれが無内容な疑似論文であることを暴露。ポストモダン思想や人文学の学術の基準を批判し、「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる大論争を巻き起こした。
首謀者のアラン・ソーカルは事件後、物理学者のジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞—ポストモダン思想における科学の濫用』(田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳/岩波現代文庫)を書き、ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズとガタリといった名だたるポストモダニストたちの名を章タイトルに掲げ、それぞれの理論の自然科学における知見に対する理解の杜撰さ、解釈の手前勝手さを具体的に指摘し、ポストモダンの理論が根拠にした数学の定理や物理学の法則を無化した。
わたしが読んで面白いのは、トーマス・クーンのパラダイム論、カール・ポパーの反証可能性、ポール・ファイヤアーベントの「なんでもあり」の科学的方法論について、それぞれに批判を加えていることだ。これらの科学哲学は、ポストモダン思想に先行して科学的な事実が文化に多大な影響を受けていたり、理論負荷性といった──主観的な先入観に影響をうけるという意味で──相対的なものであったりすることを説明する理論を立てていた。
ソーカルらの科学哲学への批判は、因果関係の観念が事象の連続性から生じる「心的習慣」にすぎないと結論づけ、実態より経験を重んじたディビット・ヒュームの帰納法にまで及んでいる。
ソーカル事件の衝撃は大きく、ポストモダン側からの反論も激しかった。現代思想の失墜を思わせるものがあったが、先に見た不満スタディーズに明らかなように、その後、ますます先鋭化し政治化していった。
ソーカル事件後、日本でも『「社会正義」はいつも正しい』の訳者でもある山形浩生氏が浅田彰の著書『構造と力-記号論を超えて』(中公文庫)におけるクラインの壺の比喩について批判を展開した。浅田は、クラインの壺を用いて資本の循環や内外の区別の曖昧さを説明したのだが、山形氏は浅田のクラインの壺の解釈が数学的に不正確であり、比喩としても適切でないと指摘した。この批判に対して、浅田や他の論者からも反論があり、議論が展開された。
ソーカル事件は、日本ではニューアカデミズムといわれたポストモダン思想の支持者たちに少なからず衝撃を与えた。『「知」の欺瞞』でも章を割いているクルト・ゲーデルの不完全性定理などは、柄谷行人らによく引用されており、わたしなども思想的な知見が自然科学の知見を根拠にする正当性の高いものだと思い込んでいており、困惑させられた。わたしはその時点までにそうとうにポストモダン思想──というかニューアカ──にかぶれており、「本質」とか「本性」といった言葉を使うことに躊躇があったほどである。
今回、ページをめくる程度に『「知」の欺瞞』を読み直して、『「社会正義」はいつも正しい』との間にある違いに気づいた。それは、前者が自然科学の知見をみずからの論の根拠とするのに対し、後者においてはみずからの論のまえでは自然科学の知見さえも社会的構築物であり、相対的な事実でしかないと退けている点だ。
『「社会正義」はいつも正しい』で、現在の各種のスタディーズの研究者たちが真実をあまりに構築物、相対物であると主張することに対し、たとえば犯罪事件が起き、その裁判においてもその犯罪を構築物、相対物ということができるかといったことまで怪しむレベルになっている。実際、そういう意見を述べる司法関係者まで登場しているせいだ。
かつてはポストモダン〈理論〉の味方にしようとした自然科学が、いつのまにかポストモダン〈理論〉の敵にまわっていた。これはとりもなおさず、〈理論〉がイデオロギー化していることの証左ではないだろうか。

現在、知の最先端にあるのはノーベル賞をみるまでもなくAIの分野であることは言を俟たない。そして、#14でも書いたようにAIは多くの知の領域を横断するものだ。それは人間そのものの存在を科学的にも、思想的にも問うものだからである。
AIをめぐってイデオロギッシュな議論が展開されている。わたしは以前から、AIをはじめとする先端テクノロジーと近代社会の関係を考えてきた。そして、AIの議論には宗教や思想を背景にもつものが多くあると感じてきた。それは、AIとイデオロギーが切っても切り離せないものであること、科学と思想が切っても切り離せないものであることの証左だろう。
期せずしてのことだが、本稿には「生物学者」を肩書きにする人物が複数人、登場している。ルイセンコやクロポトキンはイデオロギーの前で生物学を誤謬した。
AIの研究開発は知能とは何かを問うなかで、生物としての人間の輪郭を明らかにしていっている。もしこれがイデオロギーの支配を受ければ、AIの研究開発は想像し得ないほどの不幸を招く可能性がある。
ポストモダンからポストヒューマンの時代へ、わたしたちはどのように歩みだすのか。
哲学者たちはAIを論じるのに哲学的な視点を欠いてはいけないという。その通りだと考えるのだが、それがまたなんらかのイデオロギーに奉仕するものにならないことを祈らざるとえない。
冒頭の繰り返しになるが、テクノロジーは悪でも脅威でもない。
もっとも恐ろしいのは、テクノロジーに思想的な断定を加えることではないか?

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