見出し画像

コントラストがあるからこそ、見えるものがある~幸せ、感情、愛          

古代インド哲学に「ベーダ」があります。その中で説かれている宇宙観には、次のような内容があるそうでう。 

古来、この世界にはひとつなる意識しかなかった。
そして、その一つなる意識(神)は、分離することを選んだ。

 分離することということは、ある意味、分化していくこと。
 枝分かれしていくこと。
 
 感情で考えれば、喜びや嬉しさだけではなく、憎しみや嫉妬、悲しさや怖れすらも生まれるということです。 
 そんなネガティブな感情が生まれるのに、どうして、わざわざ分離を選んだのでしょうか?それは・・・ 

愛したかったから

 ひとつなる意識では、そもそも愛の対象がありません。そして、愛する体験もできません。
 分離して、別れることで、「対象」が生まれます。
 そこで経験できます。

 もっと言えば、

怒りや憎しみも、恐れも、すべての存在は、「愛を体験するため」に存在している、愛の出番のために必要だった。

ということもできるかもしれません。
 
 対象を反対の概念や経験と言い換えてもいいと思います。
 
 海の中にいる魚は、普段はきっと「水がある」という幸せを生きていることに気づきません。陸に上がって、「水が無い」という不幸の状態を経験して、水があるという「幸せ」な状態を理解できます。
 
 毎日、3食、おなかいっぱい食べられるという日常を生きていると、不自由なく食べられる幸せに気づきません。食べ物が無くて(病気で)、「食べられない」という不幸な状態を経験して、思い切り食べられるありがたみが分かります。
 
 毎回、思い通りに行くゲームをしていると、簡単すぎてつまらなくなります。
 思い通りにいくことばかりだと、意外に楽しくありません。
 試練やトラブル、ちょっとしたつらいことや悲しいことがあって、それを経験したり乗り越えたりすることがおもしろかったりします。
 
 

幸せな人の一番の不幸は、「不幸がないこと」なのかもしれません。
いつも幸せだったら、その幸せを「幸せだ~」と理解できません。
幸せしか身の回りになかったら、幸せと感じられません。


 
 不幸なことがあって、それと比較できるから、「幸せ」への理解が深まります。
 
 自分が神様だとしたら、人間が幸せを感じられるようにするために、ちょっとした不幸な出来事をおこすでしょう。
 自分が神様だとしたら、人間が喜びを感じられるように、ちょっとした悲しい試練を与えるでしょう。
 自分が神様だとしたら、人間が成長できるように、病気や失敗、悩みなどを経験させるでしょう。
 
 悩みや失敗、病気に試練、トラブルがあるということは、「しあわせ」なことかもしれません。
 
・・・・
と思えたら、少しは、この世で経験する、特に「ネガティブなこと」に対して、距離をとって、落ち着いて対処できるかなと思いました。
 
 あるいは、日々思い浮かぶネガティブ感情も、それにひきずられないことは大切ですが、思い浮かぶそのこと自体を否定せず、受け止める、必要な事だったんだと受け入れることはできるのではないかと思います。
 
 
ここまで読んでいただき、ありがとうございます
皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです