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「わたし=あなた」だから、投げかけたものが返ってくる~小林正観、キリスト、孔子らの言葉から
小林正観さん(旅行作家、心理学博士)の言葉に、
投げかけたものが返ってくる
があります。
他人に不愉快なことをすれば、自分も不愉快を感じるようなことになる。
人に喜ばれるように生きていくとか必ず自分も喜ぶようになる。
周りの人に親切にすると、自分も親切にされる。
そんな現象をまとめた言葉です。
似た意味の言葉はたくさんあります。
自分が蒔いた種は自分で刈り取る(ことになる)
情けは人の為ならず
因果応報、自業自得
別の言い方をしたら、投げかけたものは受け取るものになります。
なぜなら、私とあなた(周りの人)、いや、すべてのものはつながっているからです。
臨床心理学の第一人者で晩年、文化庁長官も務めた河合隼雄先生は、講演会の中で、井筒俊彦さんの「意識と本質」という本を引用して、よくこう表現していました。
みなさんは「花が存在している」なんて言っているけど、そうじゃないんですね。
存在が、花しているんです。
この花びんも同じです。花びんじゃなくて、存在の別の表れです。
存在が花びんしているんです。
・・・
これを人間に当てはめて考えれば、
「私が存在する」ではなく、「存在がわたし、している」んです。
「あなたが存在する」ではなく、「存在があなた、している」んです。
となります。一人一人、一つひとつの物は、分離して「分かれている」と感じますが、「存在」はひとつで、すべてつながっているという発想です。
だから、私とあなた、私と周りの人はつながっていて、「わたし=あなた」「わたし=すべてのもの」ともいえます。そして、つながっているからこそ、自分が投げかけたものが、返ってくる~受け取ることになるのではないかと思います。
別の表現でいえば・・・
木と葉っぱの関係を考えてみると分かりやすいかもしれません。
葉っぱそれぞれに大きさが違います。形も違います。
ある葉っぱは緑で、ひょっとしたら、別のある葉は赤や黄に色づいているかもしれません。また、虫に食べられて穴が開いているかもしれません。でも、どんな葉っぱでも、同じ1本の木の一部。本当は、枝や幹でつながっています。
手(の平)を指でもたとえられます。
「俺の方が太くて力強い」
「いや、私の方が長くてスマートよ」
「一番小さくてかわいいでしょ」
と、それぞれの指は、自分のことを主張するかもしれませんが、元をたどれば同じ手の平でつながった、仲間です。あるいは、人体という大きな存在の一部です。それぞれ、機能や役割に違いがありますが、同じ手の一部として変わりはありません。本当は同じ「一つ」です。
海と波でも同じことがいえます
さざ波や大波、嵐の時の波などなど。それぞれに違いはあります。でも、波が収まれば、元の海に返ります。あるいは、波同志の違いはあっても、同じ海と言えます。
それぞれ枝分かれしていますが、元をたどれば同じ存在。
人間でいえば、ひとりひとりの命は別れていますが、元をたどれば同じです。別のいい方をしたら、同じ「魂」でつながっているという発想です。
「私とあなたは同じ存在。同じ魂」であるからこそ、
自分を大切にすることは、他人を大切にする事と同じ。
他人を傷つけるということは、自分を傷つける事と同じ。
自分を責めることは、他人を責める事と同じ。
他人を責めることは、自分を責める事と同じ。
誰かの為に祈ったことが、自分の幸せを生み出します。
実際、脳の仕組みとして「脳は主語が理解できない」があります。
脳の中でも私とあなた、私とみんなが一緒になっています。
自分が人の悪口を言うと、脳の中では自分が悪口を言われたのと同じ状態になります。つまり、相手を傷つけているようで(もちろん、傷つけていますが)、自分も同じように傷ついています。主語を理解できないので、「相手への言葉」とは理解していない、自分の事と受け止めるからです。
でも、逆もまた然り。
例えば、友達を「やればできるよ。大丈夫」などと励ましていると、脳の中では、自分自身が「できるんだ!」と応援されている、暗示をかけている、そして刷り込んでいるような状態になります。
よって、友達の成功や結婚などを祝福することと、自分自身を祝福すること同じです。イコールでつながります。
そういえば、「ザ・シフト」という本の中で、ウェイン・W・ダイアー博士は
人は「ほしいもの」を引き寄せるのではなく、
「自分と同じもの」を引き寄せる
と言っています。
人の悪口を言っていると、自分にも悪口と同じような経験が寄ってきます。
逆に友達の事を一緒に喜んでいると、自分にも同じような「喜び」の経験が近づいてきます。
聖人君子の代表であるキリストは
汝の隣人を愛せよ(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
人にしてもらいたいと思うことは何でも あなたがたも人にしなさい
と言っています。
中国の孔子も
自分がされたくないことは人にしてはならない
と言っています。
やはり、「わたし=あなた」ということを言おうとした言葉ではないかと思います。
とはいえ、私自身も苦手な人はいますし、自分の不安や怖れ、不信感などから、相手に対して心を閉ざしてしまうことはよくあります。そして、閉ざした分だけ、「孤独」も感じます。
でも、「わたし=あなた」という発想を知るだけで自分は「ひとり」ではなく、「大きな存在の一部」~「すべてひとつ」と受け止められます。
自分の目の前に現れる人は、自分の魂のかけらなのかもしれません。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます
皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです