【血縁関係シリーズ⑩】松平容保と松平慶永の血縁関係
幕末には松平容保と松平慶永という人物が歴史の表舞台に登場します。
松平容保(1835~1893)といえば、高須四兄弟の一人であり会津藩の藩主になりました。
後に、あの有名な新選組が会津藩の庇護下に入って活動をすることになります。
松平慶永(1828~1890)といえば、越前藩の藩主であり幕末の四賢侯の一人にも数えられます。春嶽とよばれることもあります。
この2人は1862年の文久の改革においてある要職についたことで、有名です。
容保は京都守護職、慶永は政事総裁職という役職につきました。(このときに徳川慶喜は将軍後見職についています。)
この容保と慶永に血縁関係はあるのでしょうか?
調べてみたところ二人とも徳川家康の子孫であることがわかりました。
つまり、文久の改革で要職についた3人(容保、慶永、慶喜)はみな家康の子孫なのです。
Wikipediaを参考にして系図を作ってみようと思います。
<松平容保>
徳川家康
↓
頼房
↓
松平頼重
↓
頼章
↓
頼豊
↓
徳川宗堯(むねたか)
↓
宗翰(むねもと)
↓
治保(はるもり)
↓
松平義和(よしなり)
↓
義建(よしたつ)
↓
容保(かたもり)
容保は家康の10代後の子孫です。
容保は家康の11男の徳川頼房を祖とする御三家の一つにあたる水戸徳川家の子孫で、最後の将軍である慶喜とははとこの関係にあたります。
※はとこ=いとこの子供同士
会津藩主の初代藩主は保科正之ですが、容保は養子で会津藩主になっているので、正之の子孫ではないです。
次に慶永の系図を作ってみたいと思います
<松平慶永>
徳川家康
↓
頼宣(よりのぶ)
↓
光貞
↓
吉宗
↓
宗尹(むねただ)
↓
治済(はるさだ)
↓
斉匡(なりまさ)
↓
松平慶永
慶永は家康の7代後の子孫です。
慶永は、家康の10男にあたる徳川頼宣を祖とする御三家の1つである紀州徳川家の子孫です。
他にも御三卿の1つにあたる一橋家の子孫にもあたります。徳川治済が一橋家当主についているためです。
またあの暴れん坊将軍で有名な吉宗の子孫でもあります。
ここで、容保と慶永の直接的な血縁関係を見ていくと、
容保と慶永は17親等にあたります。
17親等というと、かなり離れています。現代では親族の定義は6親等までです。17親等なら現代なら親族でもなんでもなく、まったく知らない他人と言って良いでしょう。
現代の基準を過去に持ち込むのは良くありませんが、それでもかなり離れていることは間違いありません。
ちなみに将軍継嗣問題で将軍候補となった2人がいましたよね。
そう徳川家茂と徳川慶喜です。2人は18親等にあたります。これは容保と慶永の血縁関係よりもさらに離れています。
しかし、家茂と慶喜は親戚という意識がありました。おそらく同じ徳川家の人間という意識があったからでしょう。
話を戻すと、結果的に
容保が水戸徳川家の子孫
慶永が紀州徳川家の子孫
であり2人とも家康の子孫ではあるけども、家康の子供たちの代で枝分かれしたかなり離れている血縁関係であることがわかります。
今回の記事はここまでです。
ではまた~
参考にしたもの
・Wikipedia
・幕末・維新人物大事典 西東社