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【読書感想】夏目漱石『こころ』

恥ずかしながら、夏目漱石は数年前に『坊ちゃん』を読んだくらいである。
そのため、漱石における位置付けを語るには至らないが、
『こころ』を読んで思ったことをいくつか書き残したい。


『こころ』の構成

『こころ』は上中下と3つから構成されている。
そのうち、上中は「私」の視点から描かれ、
下は「先生」の遺書から文章が構成されている。

私が感じたことは「この小説の事実とは何か」である。
この意味は、本小説が何かしらの歴史的事実に基づいているか否かの
話ではない。
現に、フィクションであることは言うまでもない。

ここで気になった点としては、

私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じである

上 一

と記されているように上中の文章は、
「私」が紙に起こした文章を我々が読まされているという設定である。
さらに下も「先生」が残した遺書である。

つまり『こころ』は、
一人称的視点から読者とともに時間が流れているものではなく、
過去のある人が認知した事実が述べられているに過ぎないのである。

言い換えれば、過去を思い出している点から、
もしかしたらあることないこと、多少誇張されたことなど、
極めて主観的な事実に過ぎないのではと思う。

唯一確かに存在するのは語り手の「私」のみである。
では、この小説の確たる事実と言えるのは、
「私」を取り巻いた事実であり、本当の事実は何であったのだろうか。
極論を言えば、「先生」という存在は確かにいたのだろうか、
という疑問さえも浮かんでくる。

こんなこと小説に問うのは野暮ではあるが、
この感想は、構成から浮かび上がったものではないかと考える。

私は『こころ』をそういう側面がある小説として読みたい。

「先生」はあまり外に出る人ではなかったが、
なぜ「私」と出会った際、鎌倉の海で泳いでいたのだろうか。

街中のどこかではなく、山でも川でもなく、海。
これには理由が2つ考えられる。

①人が惹かれる、仲良くなる場所としての海
②先生のこれからの伏線としての海

まず物語を進める上で、
「私」が「先生」のお宅へ伺うほどの関係性にならなければいけない。
①は、一緒に泳ぐことで感性的・感情的に仲が深まる演出として、
海が用いられてたのではないか、ということである。

②は、先生の過去や未来に関係し、
象徴的な演出として海が用いられたのではないか、ということである。

先生はKと房総の方へ旅に出た際、
海に入ったといった描写が描かれていた。

そのことと関連してか、または
『こころ』の終結点である自身の自殺への伏線、
つまり海は死を、生死を超越したモチーフとして用いられているか、
ということである。

ただし、鎌倉に来ていた時点での先生が自殺を決意していた訳ではない。
ただ先生の影が海へと誘ったのか、それはわからないが、
そういうところから「海」が選ばれた可能性も考えられる。

①、②どちらの可能性も考えられるが、
漱石が「海」を選んだにはそれなりの理由があると考えられる。

これ以上の議論を持ち合わせていないため、ここまでになるが、
こういうところに漱石の思想や、
人間が感じてしまう本性の部分があるのではないかと思うのである。

李 哲権が記した「心をよむ難しさ : 漱石の『こころ』を読む」では、
海での回帰性や胎動性についての考察が詳しくなされている。

他に漱石の描写として、銀杏に着目したものもある。

先生と倫理的

次に先生の人となりをみたい。

私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。私の暗いというのは、固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と大分違ったところがあるかも知れません。

下 二

この性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は後来ますます他の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の煩悶や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは慥かですから覚えていて下さい。

下 三

私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。

下 四十七

「倫理」という言葉が散見される。

これらの記述は遺書の文章(下)で、書き手は先生であるため、
先生が実際に倫理的かどうかは不明である。(主観的であるため)
つまり、追認の形を取るため、
倫理的に「生きたい」または、倫理的に「生きているつもりである」
という性格が読み取れる。
先生は、主観的には社会的に生きた人であることがわかる。

だからか先生の主語はいつも大きいように感じられる。
世間から孤立したような、
友人を裏切り死なせてしまった社会的な罪を背負っているような、
そんな社会的な意識が先生にあったように思う。

死について

先に構造のところで話したように、この小説は事後談である。
その性格故に、先生の死を順序立てているかのように、
先生は死ぬべくして死んだというような印象を受けざるを得ない。
しかし、果たしてそうだろうか。

明治天皇の崩御がもう少し先だったら。
乃木大将も死ななかったであろう。
「先生」はどうであろうか。

この書き方はいささか誤解を招くが、(誤解の理由は後述する)
「先生」が死ぬべくして死ななかった根拠には足りうると考える。

「誤解」と表現する理由は、
明治天皇の死と「先生」の死が
絶対的な連関を帯びているかのように思えるからである。

ここで私が言いたいことは、
自殺とは突然でもありうるということである。
「先生」が自殺と連関するのは、
天皇の崩御でも、例えば大事にしてた花瓶が割れたとかでもいいのである。

死とは衝動であると感じた。

この小説は順序立てられており(事実の時間の流れに整理し)、
先生やKの死を説明する風に描くが、
その説明された事実が、
自殺を導いたとは限らない訳である。

もし誰か私の傍へ来て、お前は卑怯だと一言私語いてくれるものがあったなら、私はその瞬間に、はっと我に立ち帰ったかも知れません。

下 四十二

少しの風でも吹けば何か倒れそうな、
この状態が人間の心ではないかと考える。

観念的な死(メモ)

一つ自分の中で、未だ整理がついていない部分をメモとして残しておきたい。
先に述べた構造の話で、この小説の事実性について言及したが、
先生の自殺を実態として捉える必要性はないのではと考える。
小説内では先生が死んだ描写はなく、
また小説自体の事実性に疑問を呈するのであれば、当然の推論である。

しかし、この小説内に確かなものがあるとすれば、
それは先生の観念的な死である。
仮に遺書を書いた後に死ねずにいた場合、
それは遺書を書いた時点で観念的に一度死んでいると言える。
さらに、この小説を「私」の妄想だとすれば、
「私」が先生を空想上で自殺させるのであれば、
それは観念的に死んだと言い換えても良い。

では、その観念的な死とは、具体的になんであるか。
それは先生の性格にあった倫理性、社会性にあるのではないかと考える。
天皇崩御は社会を象徴する人物の死である。
それがトリガーとなったと述べている点で、意識的に死を選ぶことは、
観念上の死を議論する際には、連関すると言って良いのではないか。

何が言いたいかと言えば、先生は社会観念的に死に、
その後に(本当に自殺をしたとすれば)実態が死んだのである。

なぜ生きなかったのか

『こころ』の感想や教科書には、
「なぜKや先生は自殺をしたのか」と問われることがあるが、
先に述べたことから答えるとするならば、
「衝動的である」としか言うことができない。

確かにあの恋愛は、
「自殺をする」という人生の選択の比重を高めたかもしれないが、
「なぜ自殺をしたか」という問いはそう簡単ではないように思える。

そこで逆に、「なぜ生きる選択肢を選ばなかったのか」という問いは、
単純に「なぜKや先生は自殺をしたのか」という答えの逆説的説明のみに
帰結するのだろうか。

いかなる倫理観であろうと、
私にとって自殺という選択肢は美化できるものではない。
自殺で何かを訴えることはできるかもしれないが、
悲しい表現ではないかと思うのである。
この考えは、甘いと思われるかもしれないが、
これは私の思想として、
自殺という選択肢は私にとっては悲しいと思わざるを得ない。

「なぜKや先生は自殺をしたのか」

「なぜKや先生は生きることを選ばなかったのか」

一見、どちらでも良いように思える問いかもしれないが、
私にとっては、私がこの文言を頭で再生する際は
少しニュアンスが違うように思えるのである。

私は生きることに焦点を当てて、人の心を考えたい。
それは死について盲目的になることではなく、
新しい視点として必要なことではないかと思う。

一読しただけでは、『こころ』を語り尽くすことはできない。
一旦、初読の感想としてここまでとしたい。

絵があるver.


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