ビクトル・エリセ「ミツバチのささやき」から学ぶ「映画ってなんだろう」
はじめに「詩的な映画(cinéma)ってなんだろう」
谷川俊太郎の「詩ってなんだろう」の問いに「詩」の表現で答えた本が面白かった。それにならって「映画(cinéma)ってなんだろう」と考えてみた。
映画には大まかに2種類ある。映画の英語訳は「ⅿovie(動く絵)」の面白さを追求したもの。それに分りやすい物語が反映されたもの。
もう一つの映画は、映画のフランス語訳で、「film」と「cinéma(シネマ)」。映像と音声を使って物語や情報を伝える芸術形式の映画。
私は、映画がFilmで撮影される事が少なくなり、映像がデジタル主流になった時点で、映像と音の描写重視のcinéma(シネマ)が持つ詩的な映画の力が弱くなった気がする。
詩的な映画の力って何?と言われると、あくまで私の感覚に過ぎないが
「物語の展開以上に、映像描写や音声が物語り、私たちの想像力を刺激し、感性や世界を拡大してくれる映画」だと思う。
具体的な作品を挙げると、
ビクトル・エリセ「ミツバチのささやき」「エル・スール」テオ・アンゲロプロス「霧の中の風景」アンドレイ・タルコフスキー「鏡」「ノスタルジア」ヴィム・ヴェンダース「パリ、テキサス」「ベルリン天使の詩」ジム・ジャームッシュ「デッドマン」「パターソン」等々。
2011年の奈良国際映画祭のゲストで来ていたビクトル・エリセを初めて見た。舞台挨拶でビクトル・エリセ監督が言った。
「映画は、私たちが望む方向へは進まなかった」
という言葉が印象に残った。それは、
「映画が観客の想像力を刺激して、心の奥深い世界へ導く「詩的な映画表現」を失った」と言われた気がした。
①「むかしむかし」絵本のような物語
映画の始まりは素朴で優しい音楽が流れ、主役の姉妹、アナとイザベルが描いた絵と共にクレジットが変化する。
描かれている絵の内容も、ミツバチを飼育する父、手紙を書く母、学校に行くアナとイザベル、汽車、黒猫、焚火を飛ぶ子、井戸と小屋、きのこ、懐中時計…、と映画のキーワードとなる要素ばかり。
音楽を作ったのはスペインの現代音楽の作曲家・ルイス・デ・パブロ。
最後の映画「フランケンシュタイン」の一場面を描いた絵に「むかし、むかし…」の文字が重なる。
まるで絵本のような出演者の手作りタイトルバックの映画のはじまり。
「1940年頃、カスティーリャのある村での出来事」公民館の前に着く車のクラクションと子供の歓声「映画が来たよ!映画がきた!」
この音と映像だけでわくわくしてしまう。村のおばさんが小さなラッパを鳴らして、間延びした声で「本日、午後五時、公民館において『フランケンシュタイン』を上映します」の声もいい。
ビクトル・エリセはインタビューで、少女の通過儀礼を主題としている動機について聞かれると
自分が幼年期に体験した映画体験をベースに描いているので、多くの人に共感を呼ぶ。
主人公アナの成長と内面的な変化は観客にとって良質な映画と出会い、見る前と見た後では「世界の見え方が変化し、より深く広くなった」事を実感する体験と重なる。
見る前の自分や世界が、ちっぽけに感じるその感覚は、様々な芸術や本や詩に出会っても感じる。
谷川俊太郎の詩集「二十億光年の孤独」を読み、人類の孤独を実感した後、日常のささいな個人の孤独の小ささを知るように…。
②映画はMOVIE(動く絵)だけでなく、静と動の対比
もちろん、私は最初から最後までハラハラドキドキのMovie(動く絵)の魅力と、飽きさせない物語展開が続く映画も大好きだ。
ただ、それとは違うcinéma(シネマ)の世界が、アート系、シネフィルという形で排除されるのに違和感を持つ。
70年代~90年代は単館系の映画館も多く、私のような観客は単に娯楽として美術館に行くようにcinéma(シネマ)を楽しんできた。
映画「ミツバチのささやき」は、静の場面と対比して動movie(動く絵)の場面が配置されている。
静と動のイメージが、映画のテーマでもある死と生のイメージと重なり観ているうちに自然と作品の深みにはまって行く。
前半の「静」と「動」の動きだけを見ると、アナとイザベルが映画館で映画を見ている「静」の瞬間、父・フェルナンドが養蜂家として働き、家に戻る「動」。
母・テレサは一人室内に籠り、内戦で行方のわからない愛する人に向けて手紙を書き続ける「静」。エリセは、その手紙の内容から、この時代の人々の内面をさりげなく伝える。一部を引用すると、
駅への一本道をテレサは自転車に乗り手紙を出しに行く。駅に着くと自転車を慌てて置き、ホームに行くと同時にプラットホームに入る汽車。
手紙を貨車の郵便受けに入れ、発車の鐘が鳴る。動く汽車の車窓には疲れ切った兵士たちの顔、顔、顔…「動」。テレサはその兵士達をじっと見つめている「静」。
夕暮れ、生き生きと「フランケンシュタイン!」と叫んで、アナとイザベルは、公民館から家へ走り込んでくる「動」(生)。
その夜、寝室でアナは「(少女をフランケンシュタインが)なぜ殺したの?」「(フランケンシュタインは)なぜ殺されたの?」とイザベルに聞く「静」(死)。
同時刻、父はせわしなく動くミツバチ(生)「動」を観察をしている。
この映画の原題は「El espíritu de la colmena(巣の精霊)」巣箱の中のミツバチを精霊と呼んでいる。父・フェルナンドは、ミツバチの巣箱でせわしなく動くミツバチの活動「動」を観察し、ノートに書きつける「静」。その部分の父の声を一部引用すると
観客は動き回るミツバチの様子を見せられ、この家そのものが、ミツバチの巣の中のような光と窓に覆われている事に気がつく。
③映画はCINEMA。映像と音で語る芸術表現
沖縄では「幼子の心は神の心に近い」という意味で童神(わらびがみ)という。仏教でも童子は菩薩のこと。キリスト教でも、神の心を人間に伝え、人間の願いを神に伝える天使の多くは子供の姿をしている。
神の心に近いアナにとって映画の中の少女マリアの死も、逃げ込んだ風車小屋で村人たちに焼き殺されるフランケンシュタインの死も、よくわからない。
姉イザベルのように『映画の出来事は全部嘘!』という現実のシステムで割り切り、理解する事はできない。
アナの心の奥に潜む死は、頭の中の幻想世界で際限なく広がり、わけのわからない不安と恐怖に襲われる。
一方、一足先に神話的幼年期を卒業したイザベルは、黒猫にひっかかれ流れた血を口紅として差す。彼女のまなざしは大人の女性のように凛々しく真剣に鏡を見つめる。
イザベルは、二人の寝室で幼いアナをからかう為に、植木鉢を割り、叫び声をあげ、死んだふりをする。この映画では、その場面は描かれず、アナの視点と音のみで状況が描かれる。
アナは父の書斎で、植木鉢の割れる音を聞き、イザベルの叫びを聞き、慌ててイザベルを探す。
アナは、寝室で死んだように横たわったイザベルを見つけ、不安を抱えたまま窓からの光を見つめる。まるで見えない神に抗議をしているように…。
部屋の中を照らす黄金の光と濃い影、窓から射す優しい光に包まれた人物は、荘厳なフェルメールやレンブラントの絵画を思わせる。
室内シーンだけでなく、外のロングショットも素晴らしい。地平線の見える荒涼な風景の中で、母テレサが自転車で走る駅への一本道。
イザベルとアナがフランケンシュタインの捜索をする村のはずれの井戸のある一軒屋。
この場面には、強い風の音だけでなく、ルイス・デ・パブロの音楽も加わり、単なる孤立、孤独だけでなく、どこか素朴で明るい希望も感じる。
アナが線路の向こうを見つめ、イザベルはレールに耳をつけ汽車の音を聞く、村の外れの鉄道の場面。
これらの場面には、アンドリュー・ワイエスの絵にも通じる荒涼な風景と孤独感があふれている。と同時に風景の先に広がる未知な世界への思いも感じる。
人物の内面を語る音響設計
ミツバチの羽音(ささやき)、映画館から漏れる映画の声、汽車の音、警笛、踏切の音、鳥の囀り、犬の鳴き声、通り過ぎる馬のいななき、教会の鐘の音、風の音。画面にある音だけでなく、画面にはない様々な音がプラスされ、エリセ独自の映画世界を作っていく。実際に撮影された村には、鉄道は通っていない。
音の演出で、特筆すべきは繰り返される父の懐中時計のオルゴール。
1回目は、父は養蜂の合間の一服に、懐中時計のオルゴールの音楽を聴き、タバコを吸う。
アナは足に怪我をした脱走兵と井戸のある一軒屋で知り合う。
2回目は、翌日、アナは父の外套とパン、ハチミツを持って脱走兵の元に行く。脱走兵がその外套ポケットを探ると懐中時計があり、蓋を開けるとオルゴールが鳴り出す。
その夜、脱走兵は一斉射撃で殺される。
翌朝、警察で脱走兵が来ていた外套からアナの父・フェルナンドが呼ばれる。3回目は警察から戻った父は、朝食で何も語らず、懐中時計の蓋を開けオルゴールを鳴らす。
その時の父とアナの沈黙の視線のやりとりで、父はアナが脱走兵に自分の外套を与えた事を知る。
下写真、オルゴールの音と父の沈黙の視線に反応したアナの視線と表情が彼女の内面の葛藤を想像させる。
アナは急いで荒野の果ての小屋に走り、そこで脱走兵の生々しい血痕を見る。
④エリセの映画は、周縁の視点から描く神話世界
アナは、夜の森で脱走兵を探す。
脱走兵は、森のどこかで生きている。アナは不安と恐怖を抱えながら脱走兵を探し、森を彷徨い、フランケンシュタインと出会う。
エリセの映画は、時に過酷で不条理な現実を教えてくれる。
エリセの映画は、人間の心と神秘的で広い世界との繋がりを与えてくれる。最後にビクトル・エリセは何故、少女を主人公に描くのか?と言う問いにインタビューで、
ビクトル・エリセは、昔から周囲の子供や家族、自然や生き物と親密で幸福な関係を持ち続けた女性(アナやテレサ、イザベル)の視点で、現実を語り、心の奥の世界を、繊細に詩的描写で描く。
私自身好きな映画は、社会のシステムを作る英雄の話ではなく、システムから外れ、傷つき生きづらさを抱え、それでも懸命に生きようとしている男女を問わず周縁にいる人々の映画だ。
映画はそのシステムの外により大きな世界が広がっている事を教えてくれる。その広い世界と繋がる術を与えてくれる。
アナが映画「フランケンシュタイン」から受け取った神秘的な世界は、過酷な現実の出来事とつながり、一旦は破壊されるが、それゆえより強い切実な思いをもって、新しい世界の希求と創造へと繋がる。
森で気を失い、病から回復したアナにイザベルの声が蘇る。
アナは、ミツバチの巣箱の中の人工的な黄金の光から抜け出し、自然の中の青い月の光を浴び、窓を開けて、心を開き、森の精霊と友達になろうと、「私はアナ」と呼びかける。
精霊の魂を持って、自然の中の精霊と友達になろうとするアナの行動に、戦争が続き、地球が悲鳴を上げている現代だからこそ、新しい世界、新しい時代への希望と可能性を感じる。