映画批評 ヒッチコック『めまい』-美しき愛の弁証法-
喘息が一向に収まる気配がないので、映画でも観ながら体を休めようと思い、ヒッチコックの『めまい』(1958)を観た。素晴らしい悲劇作品であった。やはり自分はヒッチコックが好きなのだなと再確認した。
ファガーソン(ジェームズ・スチュアート)とマデリン/ジュディ(キム・ノヴァク)との間で繰り広げられる、愛ゆえの弁証法的運動が非常に美しかった。亡霊にとり憑かれたマデリンを演じていたジュディは、本物のマデリンの夫であるエリスター(トム・ヘルモア)の妻殺しに加担したという後ろめたい過去を清算したい。もはや偽りのマデリンとしてではなく、新しい人間としてファガーソンに愛されたいとジュディは願う。それに対してファガーソンは、曾祖母の亡霊に苛まれた哀れなマデリンが実在したことをどこまでも信じようとし、幻のマデリンをあくまで愛そうともがく。
二人の男女の愛ゆえの対立は、どこまでも止揚されることなく暴力的にせめぎ合うが、本物のマデリンがエリスターによって突き落とされた教会の最上階で、この愛の矛盾は高次の形態へ開花する。それはもはや、単なる惰性的な妥協などではなかった。二人の愛の破滅寸前に、ジュディはファガーソンを騙し続けていたこと、しかし彼への愛は常に真正であったことを告白して許しを請う。ファガーソンも、彼女の弁明を受け入れて、彼女をマデリンの代償物としてではなく、一人の新たな人間として愛することを約束する。思えば、あの最期の抱擁とキスの瞬間において、ファガーソンは初めて彼女をジュディという名前で呼んだのだと見なすことが出来るだろう。
二人の愛ゆえの矛盾・葛藤が高次の形態で止揚されたあの場で、ファガーソンは高所恐怖症も克服した。自分のせいで誰かを失ったという罪悪感によって引き起こされたファガーソンのトラウマは、皮肉なことに、ジュディとエリスターによって策略にかけられたお陰で解消されることになる。結果的に、マデリンが命を落としたのは自分のせいではなかったこと、警察官時代の上司の死も同様であったことを悟ることで、ファガーソンはあの極点において二重の意味でトラウマを克服したのである。
だからこそ、あの愛の弁証法が完成した瞬間に、運命の悪戯のせいで、本物のマデリンの最期を追うかの如くジュディも教会から墜落する場面は、観る者を呆然自失とさせるだろう。不器用だが涙ぐましい二人の男女の和解は、あまりにもあっけなく打ち砕かれることとなった。
一見解決不可能に見えた愛ゆえの矛盾・葛藤が、奇跡的に和解した瞬間に崩れ去るという意味で、この作品はまぎれもない悲劇である。さらに、ミッジ(バーバラ・ベル・ゲデス)の存在も、この作品の悲劇性を一層際立させている。演技や策略なしに一途にファガーソンを愛していたにも関わらず、ジュディにのめり込んでいたファガーソンにミッジの想いは届かない。もし仮にミッジの愛が実っていたなら、ファガーソンもジュディも、たとえ愛の美しい和解を果たすことはできなかったにせよ、あのように没落することは決してなかったであろう。
ところで、やはり亡霊は存在したのだと考えるべきなのだろうか。つまり、非業の死を遂げたカルロッタが、曾孫のマデリンを殺してその命を弄んだ二人の内の一人に復讐を果たしたのだと。錯乱して教会から飛び降りる寸前に、ジュディが単なる人影にあそこまで驚愕したのは、本物のマデリンの死に自分が加担したことへの罪悪感が彼女に幻を見せたからだけではなく、亡霊であるカルロッタの姿自体があの場に現前していたからではと考えるのは、あまりに穿ち過ぎた見方であろうか。自分の愛する人間から見捨てられ自殺を図ったカルロッタの肖像画に瓜二つの絵が、あの時同じ境遇にいたミッジによって無意識的に描かれたのも、亡霊による何らかの干渉ゆえにであったと考えるのは、更に穿ち過ぎているだろうか。