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アレント『人間の条件』第三章 労働 再構成⑷-「それは趣味に過ぎない」-


第三章 仕事⑷


 永久に終わりのない労働とは異なり、仕事は「最終生産物(finished product)」¹としての道具を作り終わった時に、目的を達成する。そして、仕事が行為と結びつき、政治組織の枠の中で進行する時、それは専門化という形となって現れる。仕事の専門化を導くのは最終生産物であり、「その生産のためにはさまざまな技能を集めて組織することが必要」²となる。

 それに対して、労働が行為と結びつき、政治組織の枠の中で進行する時、それは分業という形で表れる。労働の分業は、労働共同体におけるあらゆる活動が同質的で、交換不可能な特別の技能を必要しないということに基づいている。

 産業革命以降、あらゆる仕事は労働へと変化した。そして、労働によって生み出される物が大量に蓄積されることになった結果、物の生産を無限に続けるためにも、物を使用対象物としてではなく、消費財として扱うことが必要となった。これらは、あらゆる物を使用対象物ではなく消費物として扱う消費者の社会が、労働者の社会と同義であることを示唆している。消費者の世界では、仕事の産物であったはずの芸術も、遊びとして理解されることになる。なぜなら、労働者の社会においては、生命の維持に関わらないあらゆる活動は、「趣味」としてしか見なされないためである。




考察

 近代社会の成立以後、芸術やその他の、生命維持に直接関係のない活動は全て「趣味」や「遊び」とみなされるようになったというアーレントの指摘は面白い。それらがすべて「趣味」である以上、ひたすら生命維持に仕える活動のみが「趣味」ではない「公的」なものになることは避けられない。

 誰もが口を揃えて言う。「真面目に働かなきゃね」と。「遊びは終わり。私たちはもう大人だからね」と。「アートとか、そういうのが楽しいのは分かるけど、あくまで個人の趣味だからね」と。

 もはや誰も、「趣味」や「遊び」に真剣さ・重要さを見出そうとはしない。誰も、いわゆる「公的」な出来事や「真面目」で「真剣」な物事に、馬鹿げた、それこそあまりに個人的な人間の心配や気遣いを嗅ぎ出そうとはしない。

 いや、おそらく多くの人は内心では気付いている。俺のこの遊び、この作品以上に本当の意味で真剣な物事などあるかと。俺たちが無理矢理やらされている「真面目」な「仕事」こそ、蓋を開けてみればその実下らないごっこ遊びに過ぎないじゃないかと。誰もがそうした本音を呑み込んで、ぐっと我慢しながら社会という神輿を担いでいる。

 アーレントは、そもそも芸術や生命維持のためには役に立たないものが「遊び」としてしかみなされないことに憤っているわけだが、私からすれば、そもそも仮にそれらが「遊び」だとしても、なぜ「遊び」ではいけないのかという問いも立てられなければならないのである。

 別に、「子供」の「遊び」にこそ、真の独創的な主体性が宿るといったニーチェ的な壮大なビジョンを私は持っていない。そうではなく、何の意味も無く、「どうしようもない」行いの何がいけないんだ、じゃあせいぜいあらゆる物事の「有用性」を必死にずっと計算していろ、という反発心があるわけである。

 いや、そんなことはない。今日「遊び」の意義はむしろ積極的に評価されている。現にまだ幼い子供たちに「しっかりと遊ぶ」ように推奨されているではないか、といった反論があるかもしれない。私も、そうした風潮を全否定するつもりはない。もし、将来私に子供ができたら、私も子供に最大限、しかし強要することもなく、「しっかりと遊ぶ」よう計らうだろう。

 だが、現に「しっかり遊ぶ」ことを子供に推奨している人間が、その際に、「皆さん見てください!最新の研究によると、1歳から3歳までに子供に『遊び』を頻繁に経験させると、子供の論理的思考力にこんなにも差が出るんですよ!」などとプロモーションをしている姿をしばしば見るにつけ、確信することが一つある。この社会という代物は、生命維持や成員の社会的地位の上昇に貢献できるのでない限り、「遊び」という活動の内在的価値を認めることは決してないのだと。



参考文献
1 ハンナ・アレント『人間の条件』牧野雅彦訳,講談社学術文庫,2023年3月,p.196
2 同上,p.197

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