存在と写像
あなたってなんですか?そう聞いたとき、たいていの人は名前、年齢、性別、職業などを答えるだろう。あなたについて説明するとき、あなたはあなた以外のなにかであなたを説明しようとする。1=1なんて説明は無意味だからね。そう考えると存在とは写像なのかもしれない。
写像とはたぶん鏡に映るものだ。この鏡は反射する存在である。そして物体が他の物体と分けられるとき、それとそれ以外のすべてという分け方がされることから(私は私以外のすべて以外であるように)あらゆるものが鏡と言っていい。
ともかくその鏡に名前とか年齢とかって概念があって、そこからあなた個人のものだけを反射する。たとえば名前の概念がなければあなたの名前もないし、あなた個人の名前はあなたの一部だからね。
あなたはあなた単体であなたを説明できないから、現実的に説明すると目を使って目を見ることはできないし、自分の脳の正しさを自分の脳で完璧に判定することはできないから、あなたの説明は絶対に写像になる。
これが哲学の根源的で歴史的な問題だと思う。
もし鏡が汚れていたり、歪んでいたら、鏡の前にあるものをそのままに映すことができない(自然哲学はこれを無視した)。そして鏡を見る目が間違っていれば、鏡が正しく映していても間違ったものを見てしまう(方法的懐疑)また(少なくとも現代人は)言語なしに私たちは思考できないから、言語に誤りがあれば写像も誤る(言語哲学)。
生きるためには私と鏡の無謬性をある程度無視するべきだが(そうでないと日常が不安定になるし)学問的には突き詰めなくてはならない。それでも最終的には、推理と感覚と言語以外に説明の手段を持たないから、それらをひっくるめて「人間の思考」だから、推理と感覚と言語に対する疑いを、推理と感覚と言語で説明する、A=Aの、数学的で一目瞭然なトートロジーに至る。これら3つは相互に結び合っているから、なにか1つから疑うことはすべてを疑うことになる。だがすべてを同時に疑えば、私はなんの基盤も無しに哲学を始めなくてはならないから、絶対に失敗する。
真の真理とは推理と感覚と言語無しに存在できて、鏡と写像としての姿を必要せず、それ自身がそれ自身の説明になる、必ずどこかにあって必ず認識できないものだろう。