世界史人物伝 No.255~259
No.255 子張
紀元前503(懿徳8)~?
読み:しちょう
姓:嬀(き)
氏:顓孫(せんそん)
名:師(し)
字(あざな):子張(しちょう)
性別:男
出身地:陳(ちん:現在の河南省)もしくは魯(ろ:山東省南部)
孔子の最年少の弟子。
No.256 申祥
紀元前481(懿徳30)~?
読み:しんしょう
姓:嬀(き)
氏:顓孫(せんそん)
名:申幸(しんしょう)
字:子莫(しばく)
性別:男
出身地:陳(河南省)もしくは魯(山東省南部)
孔子の弟子である子張の息子。
No.257 公明儀
生没年不詳
読み:こうめい・ぎ
姓:公明(こうめい)
名:儀(ぎ)
字:不明
性別:男
出身地:魯(山東省南部)の南武城(なんぶじょう)
春秋時代の儒者。子張の弟子。曾子(そうし)の弟子とも。
No.258 陳禦寇
?~紀元前672
読み:ちん・ぎょこう
姓:嬀(き)
氏:陳(ちん)
名:禦寇(ぎょこう)
字:不明
性別:男
出身地:陳(河南省)
春秋時代の陳の太子。
No.259 陳顓孫
?~紀元前672以降
読み:ちん・せんそん
姓:嬀(き)
氏:陳(ちん)
名:顓孫(せんそん)
字:不明
性別:男
出身地:陳(河南省)
孔子の弟子である子張の先祖。陳の公子。
子張の生涯
孔門十哲のなかに子張は含められていない。
しかし、『論語(ろんご)』では子路(しろ)・子貢(しこう)に次いで、出現回数が多く、子張篇の冒頭3節では、子張の言葉を伝えているなど、きわめて重要な弟子であったと考えられている。
また、『韓非子(かんぴし)』顕学篇には、儒家八派のひとつとして「子張の儒」があったことが述べられている。
同じ学派は『荀子(じゅんし)』非十二子篇において「子張氏の賤儒」と非難されている。
孔子の弟子としては孔門中、最年少者であり、孔子より48歳若いといわれる。
人となり、才が高く、意が広く、門戸を張って、人の感情などに拘らないところがあったという。
『礼記(らいき)』檀弓上には、子張の子の申祥(しんしょう)、および子張の弟子の公明儀(こうめいぎ)の名が見える。
『春秋左氏伝(しゅんじゅう・さしでん)』荘公22年(紀元前672)によると、陳で太子の禦寇(ぎょこう)が殺される事件があった際、陳公の子であった陳完(ちん・かん:田斉の祖)と陳顓孫(ちん・せんそん)は斉に逃亡した。
陳顓孫は、そこからさらに魯(ろ)に逃げたという。
子張はその子孫で、陳顓孫の名から、顓孫を氏とした可能性がある。
『史記(しき)』儒林列伝によると、孔子の死後に陳に渡ったという。
一方、『呂氏春秋(りょし・しゅんじゅう)』孟夏紀・尊師では、子張が魯の鄙家(ひか)の出身であったという(『尸子』勧学篇では「駔」(商人)であったとする)。
鄙家(ひか)とは、田舎の出身、もしくは貧しい家の出身という意味である。
有名な「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で「過」と評価された人物である(『論語』先進篇)。
また、同門の高弟である曾子(そうし)は、「立派ではあるが、ともに仁をなすことは難しい」、子遊(しゆう)は「私たちの及び難い、優れた人材だとは思うが、まだ仁には至っていない」などと評している。(『論語』子張篇)
牛に対して琴を弾く
子張の弟子の公明儀が、ある時、牛の前で琴を弾いた。
名曲を聞かせても、牛は知らん顔をしていた。
ところが、虻(あぶ)や蚊の音、子牛の鳴き声のような音をまねると、牛は尾を振って歩き出し、耳をそばだてたという。
「祖庭事苑(そていじえん)」の故事からで、 いくら高尚なことを説き聞かせても、志の低い愚かな者には、何の役にも立たないことのたとえとして使われている。