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航西日記(18)

著:渋沢栄一・杉浦譲
訳:大江志乃夫

慶応三年二月二十一日(1867年3月26日)つづき


晴。スエズ。

夕方七時ごろ、調度ちょうど、食料、パン、乾肉かんにく、果物、ブドウ酒などを用意して、汽車に乗って出発。

鉄道のかたわらのところどころに、テントを張って、荷物を積み重ね、人夫にんぷも居住している。

駅から数十歩も離れると、砂漠である。

草木を生ぜず、茫漠ぼうばくとした広野が、風の吹きまわしで、高低を生じている。

途中の休憩所に、数軒の人家があって、車中の客に、食料を売っている。

鉄道に沿って、一筋の往還があって、土民が、ラクダに荷物を負わせて、通行している。

およそ、砂漠を旅行するには、牛馬は、飲料がなくては、遠くまで行けない。

ただ、ラクダだけは、渇きに耐えるので、人や荷物を乗せるのに使えるという。

乱世の昔は、盗賊が多かったので、人民数百人が集まり、ラクダ数百に、荷物を載せて、隊商を組んで、隣国に売りに行ったという。

この客舎きゃくしゃで、車中での砂塵さじんをよけるための眼鏡、または、薄いしゃの布(ヴェール)を買って、途中にそなえる。

夜十二時、カイロに着く。

エジプトの首府しゅふで、アフリカ州ではあるが、管轄は全て、トルコである。

王に次ぐ、亜王あおうがいて、国内の政治をつかさどる。

風俗、政治とも、トルコに同じである。

土地は、東方が砂漠で、草木水源は無く、この地から南の方が、やっと耕地となっている。

地中海に臨んだ地は、広い平野で、地味も肥えている。

ナイル川というのがあり、洲内月山というところに、源を発して、地中海にそそいでいる。

川の両岸には、多くの支流があり、その沿岸は、全て泥土でいど良田りょうでんである。

歴史的に、毎年一回、洪水がおこり、深さ三十尺、広さ二十里にも及び、田土を培養ばいようすること、ちょうど農夫が灌漑かんがい施肥せひするのと同様で、洪水が及ばない土地は、荒れた砂地になるので、洪水の大小によって、その年の豊凶ほうきょうを判断するという。

このような荒蕪こうぶ砂礫されきの地でも、自然の養いがある。

天は、人を捨てないものだ。

この国は、昔は極盛きょくせいの地であって、風俗、文物ぶんぶつは、欧州諸都に先立って開け、その名は、遠くにまで聞こえた、歴代相伝れきだいそうでん古国ここくであったが、宗法そうほうの混乱から、盛衰隆退せいすいりゅうたいをくりかえし、建国後、七百余年で、日に衰弱におもむいて、ふたたび振るわず、その後、数百年、マホメットが、回教かいきょう(イスラム教)をとなおこして以来、とうとう、そのために国を奪われ、都城とじょう大庫たいこに収めた図書七十万冊も、回教徒に焼き捨てられたという。

その文物が、さかんだったことが想像できる。

1800年代に、仏国王のナポレオンが攻め取ったが、また、トルコの支配下に入り、その後、久しく、ローマに属して、総督をおいたが、後に、トルコにそむいて、大いに土地を開き、近ごろは、トルコの属領ぞくりょうとなって、亜王の支配権が及んでいる。

ここには、一巨寺いちきょじがあって、マルブル(大理石)で建立こんりゅうした、およそ十余じょう伽藍がらんである。

上は、柱、はり垂木たるきにいたるまで、彫刻ちょうこくをちりばめ、天井てんじょう金箔きんぱくり、五色ごしきにいろどり、きらびやかさは、目もくらむようである。

ゆかも大理石をいて石畳とし、入る者は、くつを脱がねばならない。

回廊層閣かいろうそうかくが、まわりを取り巻いている。

この礼拝堂の門戸もんこを砲兵が警衛けいえいし、寺中じちゅうから市街を臨むと、一目瞭然いちもくりょうぜんである。

世界に有名なピラミード、および、巨首きょしゅ(スフィンクス)がある。

市中第一の奇観きかんという。

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