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満州より愛を込めて①

1938年(昭和13)3月。

杉原が、ビザを書く2年前のこと。

ソ連と満州国の国境付近にあるオトポール駅では、ユダヤ難民が、満州国に入れず足止めされていました。

彼らのほとんどが、着の身着のままで、ドイツや周辺諸国を逃げ出し、旅費も食事も防寒服も満足になく、凍死寸前の人もいて、悲惨な状況でした。

当時、満州国の外交は、日本のそれと同じで、ドイツの国策を無視できず困惑し、その結果の入国拒否でした。

このユダヤ難民を救ったのが、当時ハルビンで、関東軍特務機関長だった、樋口ひぐち季一郎きいちろうなのです。

さて、オトポール駅での惨状を知った樋口は、手記で、こう回想しています。

満州国は、ピタッと門戸を閉鎖した。

ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って、野営的生活をしながら、オトポール駅にたむろしている。

もし満州国が、入国を拒否する場合、彼ら(ユダヤ難民)の進退は、極めて重大と見るべきである。

ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。

しかるに『五族ごぞく協和きょうわ』をモットーとする、

万民ばんみん安居あんきょ楽業らくぎょう』を呼号する満州国の態度は、不可思議千万である。

これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは、満州国独自の見解でもあるのか・・・。

当時、我が国は、日独にちどく防共ぼうきょう協定きょうてい(共産主義を防ぐ協定)を結んでいましたが、ドイツは、これを拡大解釈し、ユダヤ人も、その(防共の)対象としたのです。

ですから、下手なことをすれば、ドイツを刺激し、外交上の問題となることは明らかでした。

しかし、樋口は、これを政治上の問題ではなく、人道上の問題ととらえ、

満州国外交部の下村しもむら信貞のぶさだと協議し、必要な処置をとらせたのです。

さらに、当時、南満州鉄道の総裁だった、松岡まつおか洋右ようすけは、樋口に相談されると、ただちに救援列車の出動を命じたのです。

オトポールに近い、南満州鉄道駅である満州里まんしゅうりは、ハルピンから、900Kmの彼方にあり、列車の本数は少く、特別な臨時列車が必要でした。

1938年(昭和13)3月12日、ハルピンに、最初の列車が到着。

ハルピン在住のユダヤ人も出迎えて、同胞の救出をことのほか喜んだといわれています。

こうして救われたユダヤ難民は、上海に、あるいは、アメリカへと旅立って行ったのです。

つづく

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