ニギハヤヒの伝承地を訪ねる④ 生駒市の伝承地めぐり
奈良県生駒市は、前回記事の大和郡山市の北西に位置します。
長髄彦本拠碑、鳥見白庭山碑、饒速日命墳墓、夫婦塚碑(妻の御炊屋姫の墓)、鵄邑顕彰碑。一通り揃っていますので順番に見ていきましょう。
長髄彦本拠
生駒市上町 「前の池」のほとりにあります。元あったところが宅地開発で「白庭台」という住宅地になった為、この地に移されたとの事です。
鳥見の白庭山
『先代旧事本紀』は、「饒速日命は河内国河上の哮峯に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山にお遷りなった」と記します。その伝承碑が長髄彦本拠碑から50メートル程離れた民家の庭に建っています。
饒速日命の墳墓
『先代旧事本紀』では、高皇産霊尊の命令で、饒速日命の亡骸は天に上げられ、葬儀は七日七夜続いたとあります。また、妻の御炊屋媛に夢で伝えて、天の羽羽弓、羽羽矢、神衣・帯・手貫を鳥見の白庭邑に埋葬してこれを墓とすると記されています。長髄彦本拠・鳥見白庭山の碑の南方 生駒市総合スポーツセンターのサッカー場奥から入った桧窪山にその墳墓の伝承碑があります。
夫婦塚
饒速日命の妻御炊屋姫の墓とも言われる「夫婦塚の碑」。畑のあぜ道にポツンと建っています。Googleマップのナビを頼りに探し当てました。あらためてスマホの便利さを実感☺
また、富雄川の対岸の丘陵には神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑が建っています。
神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑
ご覧頂いた通りそれぞれの伝承地に石碑が建っているだけです。神武天皇聖蹟顕彰碑(昭和15年)以外は、大正3年に伝承の保存を目的に建てられたものだそうです。当地に「白谷」という集落があり、「白庭山」と同じ「白」がつくことを理由に比定されたようです。
虚空みつ日本の国
今回紹介したのは①〜⑤。これまで紹介してきた伝承地も加えて位置関係を俯瞰してみましょう。
①鳥見白庭山の碑
②長髄彦本拠の碑
(至近距離の為①は②の下に隠れています)
③饒速日命墳墓の碑
④夫婦塚(御炊屋媛の墓)の碑
⑤鵄邑顕彰碑
(⑤も④の下に隠れています)
⑥磐船神社
⑦饒速日山
⑧石切剣箭神社
⑨孔舎衛坂顕彰碑
磐船神社、石切剣箭神社はこのシリーズで前に書きました。②の饒速日山についても神武東征シリーズに書いていますので、よろしければそちらもご覧下さい。
新説発表!?
地図を見ていてふと新説?を思いつきました!
長髄は〝脛の長い〟と解されています。(長髄彦の)長髄とはもともと邑の名だったと「日本書紀」は記します。では、下の足の絵を見て頂いてからもう一度地図を見て下さい。絵よりは足を伸ばした感じですが、生駒山地って足のように見えませんか?しかもスネが長い!
さきほとの地図をもう一度
これはですね、おそらく天磐船に乗った饒速日命が空から日本の国を眺めたという(虚空見つ日本の国)故事の通り、空から日本を眺めていたらあったんですね、足のように見える山が。それでその特徴をとらえて「長いスネだなぁ」と言われた。そしてそれが長髄の地名になった。きっとそうだと思います(笑)
すみません妄想です。くだらない話しにお付き合いいただきましたm(_ _)m
祀る人が居てこそ
前回の大和郡山市には矢田坐久志玉彦神社や登美連の登美神社がありました。古代には氏族はそれぞれの氏の祖神を祀ります。生駒市内には饒速日命、或いは物部氏の祖 可美真手命(宇摩志麻遅命)などを祀る有力な手がかりはありませんでした。現在の行政区分とは異なりますが、この地に石碑が建つ元々の根拠は、単に集落名に「白」がつくからだけでは無く、磐船神社(大阪府交野市)と一体に考えたものではないかと思えます。磐船神社を奉斎した肩野物部氏にどのような伝承があったのかは調べきれませんでしたが。
大正時代に建てられた伝承碑が、大きな住宅地の地名(白庭台)や駅名(近鉄けいはんな線白庭台駅)として継承され、饒速日命の「白庭山に宮居した」という伝承が後世に語り継がれるきっかけとなる。これもまた歴史なのかも知れません。
次回は奈良県桜井市へ向かいます。