番外編 椎根津彦の巻
神武東征の旅 番外編 椎根津彦の巻
「水先人」という国家資格があるそうですが、伝説上の最初の水先案内人は神武東征の椎根津彦ではないでしょうか。
しかし、椎根津彦の後裔氏族(倭直氏 直は姓)は、崇神天皇の御代に倭大國魂神の神主となった市磯長尾市など『記紀』にはわずかしか登場しません。
しかも 奈良には椎根津彦を祀る神社がありません。それで他の地方ではどうかと見てみると、『先代旧事本紀』「国造本紀」に、久比岐国造、明石国造が倭直氏一族の者であると記されていて、今回は、久比岐国造一族が祀る神社があるというので福井県・新潟県へ行ってきました。
訪れた神社はいずれも青海首にかかわるものです。青海首は、『新撰姓氏録』にも「青海首椎根津彦命之後也」と記されていますので、倭直氏の支族と考えられます。
青海神社
所在 福井県大飯郡高浜町青
創建 不詳
式内社
主祭神 椎根津彦命
履中天皇の皇女 飯豊青皇女が御祭神を慕い祀りに来られたと由緒にあります。清寧天皇と顕宗天皇の間、空白期間に執政者だったとも言われ、一部には天皇として扱われることもある皇女です。
飯豊青皇女の名前になぜ「青」が入るのかわかりません。しかし、今回訪れた椎根津彦の後裔 青海首の伝承地は皆、青、青海、青葉山、青海川など「青」がつきます。
青海神社
所在 新潟県糸魚川市青海
創建 (伝)神亀三年(726)
式内社
御祭神 椎根津彦命 他二柱
新潟県糸魚川市及び上越市・妙高市周辺は古代、 久比岐国(後には越後国頸城郡)と呼ばれていました。『先代旧事本紀』「国造本紀」が、崇神天皇の御代に、倭直氏と同祖 御戈命を久比岐国造に定めたと記します。その国造一族が青海の氏を名のったと思われます。
なぜ青海首(首は姓)と名乗るようになったのかはわかりません。「海」に面する地域ですので、単純に「青い海」という名前なのかとも思いますが、もう一つ考えられることは「翡翠」です。糸魚川はヒスイの産地です。
ヒスイの女神 奴奈川姫。『古事記』に八千戈神(大国主)が求婚する歌が記されます。また、『先代旧事本紀』と地元伝承では、大国主と奴奈川姫の間に生まれた子が建御名方神で、姫川をのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったと伝えます。
縄文時代以降、日本で利用されたヒスイは全て糸魚川産で、古墳時代までは、北は北海道から南は沖縄、さらに朝鮮半島にまで広く流通したそうです。古墳で被葬者の胸の辺りに翡翠が置かれている例があります。往古には、翡翠の勾玉には、再生・復活の霊力があると信じられていたのだと思います。
青海神社
新潟県柏崎市青海川
創建 不詳
御祭神
新潟県柏崎市青海川。こちらも古代の 久比岐国造、青海首の支配エリアであったと思われますが、神社の詳細はわかりません。
青海神社
新潟県加茂市
創建 (伝)726年
式内社
青海神社、賀茂神社、賀茂御祖神社を合殿し祀ります。
平安京遷都の折、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)の神領となり、分霊を祀ったことが「加茂」の地名の由来とされます。神社のそばを流れる川も加茂川でした。
日本大國魂神とはいかなる神なのか
青海首一族が 椎根津彦を祀る神社を訪れて、大和神社の記事で妄想した日本大國魂神とはいかなる神なのかをもう一度考えてみました。
大和神社と御祭神 日本大国魂神に関して改めて要約すると、
・日本大国魂神は奈良の大和神社に祀られている神で、(誰が)倭国造に定められた椎根津彦を祖とする倭直氏が (誰を)制圧した氏族(出雲)の神(その象徴の宝物)を祀ったと考えられます。
・日本大国魂神は大己貴神の荒御魂で、八尺瓊が御霊代(ご神体)と神社は記します。
・『先代旧事本紀』に、大和神社に日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神が祀られることが記されます。また、大和国諸社の由緒記を述作した江戸時代の神道家 今出河一友によって書かれた『大倭神社注進状』にも同様に記されます。
・『日本書紀』は、崇神天皇の御代まで、倭大国魂神が、天照大神と宮中に同床共殿で祀られていたと記します。
・8〜9世紀頃まで大和神社は、伊勢の神宮に次ぐ神階・神封を有していたと記録されます。
※前回の記事では、「制圧した者が、制圧された者の神を祀る」という視点を示さずに妄想話しを書いてしまったので、誤解があったかも知れないことをお詫びします。
今回の旅で思ったことを加味すると、
・青海首の一族が支配した地域というのは翡翠の産地。
・『古事記』の神話の段に、八千戈神(大国主)が沼河比売に求婚する物語(歌)が載っています。これはヒスイに絡み当地に出雲勢力の支配が及んだことを意味すると考えられます。
・『先代旧事本紀』「国造本紀」に崇神天皇の御代に、倭直氏の御戈命が久比岐国造に定められたと記されます。
・大和政権が国の範囲を行政区分として認定し、その長として国造を定めますが、初期においては、その地方を支配する地方豪族をそのまま国造に定めたケースがしばしばみられます。
以上の事を元にして話しを組み立てると、御戈命とは元々当地の豪族で出雲系の人物。御戈命が『先代旧事本紀』が記すように倭直氏と同祖とするなら、椎根津彦も出雲ではないのか?という考えが巡ります。
ですが、椎根津彦の祖神が大己貴神だとするのは私はどうしても合点がいきません。そこで「制圧した者が制圧された者を祀る」という視点で考えてみることにします。
「制圧した者が制圧された者を祀る」とは
崇神天皇の巻に天照大神と日本大国魂神が同床共殿に祀られていたと記されます。これが「制圧した者が制圧された者の神を祀る」例です。神武東征で大和を制圧した天皇家(天孫)が自らの祖神 天照大神と共に、元の大和の支配者で、制圧された(国譲りした)出雲の神(日本大国魂神)を大地主神として祀っていたと考えられます。
ところが、疫病が蔓延し、国中が乱れた時、崇神天皇はそれが天照大神と日本大国魂神を同床共殿で祀っていたことが原因だと考え、神威を恐れ二神を宮殿の外で祀るようにしました。
しかし、それでも混乱はおさまりません。そこへ三輪山に住まう大物主神という神が現れて「私を太田田根子に祀らせろ」と言います。その通りにすると国は治まりました。私はこの逸話は、それぞれの氏族も自らの祖神を祀りはじめた起源と理解しました。
ところが、次の垂仁天皇の巻で(一説によると)「崇神天皇は天神地祇はお祭りになったが、詳しくはまだその根源を探らず、枝葉のことに終始した為に短命だった。貴方(垂仁天皇)は先帝の及ばなかったことを悔いて私を祭れば寿命は長くなるだろう」と言う倭大国魂神が現れます。
倭大国魂神は、自らの事を「伊弉諾尊、伊弉冉尊が、天照大神は高天原を治め、代々の天皇は葦原中国の天神地祇を治め、私は大地官(地主神、すなわち国魂)を治めよと仰せられた」と言います。
その記述の後に、出雲の神宝を調べる為に物部十千根大連を出雲へ派遣することが記されます。これは神宝を差し出したことで出雲が大和へ服従したことと、あわせて神の根源を知らしめる記述でもあったと思います。大地官を治めよと伊弉諾命に言われた倭大国魂神とは、出雲神話で国づくりをおこなったと記され、大和においても神武天皇が制圧する前の統治者が祀っていた大己貴神。「制圧された側の神」であったのだと思います。
大己貴神(大国主、八千戈神など別名多数)は、大地主神として大和神社に祀られ、『日本書紀』に記されるように、大神神社の大物主神とは、大己貴神の幸魂・奇魂であると考えられます。
大和神社は、8〜9世紀頃までは、伊勢の神宮に次ぐ神階・神封を有していたと記録されていることから、往古は大神神社より大和神社のほうが神威が高かったと思われます。
一方で「制圧した側の神」とは、それは言うまでもなく天照大神なのですが、神託によって倭大国魂神の神主に市磯長尾市(長尾市宿禰)が任じられたことの意味も考える必要があります。市磯長尾市は神武東征の論功行賞で倭国造に定められた椎根津彦の後裔です。
(明記されていませんが)長尾市宿禰がもし椎根津彦から代々続いて倭国造であったなら、崇神天皇が神威を恐れ宮外に出したのは適切な対応ではなく、国造は、(自らの氏族の祖神を祀るだけでなく)それぞれの土地の「制圧された側」の神のことをよく知り、地主神として祀らなければならないということを示唆した逸話とも考えられます。
椎根津彦をもう少し深掘りしてみます。
以下、私の妄想話しです。
神武東征でなぜ椎根津彦が描かれ、倭国造に定められたかまで遡らなければなりません。『日本書紀』で椎根津彦が登場した速吸の門と言われる豊予海峡に面する大分市佐賀関には椎根津彦神社があります。神社社伝によると、椎根津彦は神武天皇の祖父と母が同じである武位起命の子とされます。私はこの系譜には疑問を持っていますが、母系で繋がっていることには同意で、その事は前の記事にも書きました。
出雲神話で大物主神が登場する前に、大己貴神と力をあわせて国づくりをおこなった神がいます。少彦名神(『古事記』は少名毘古那神)です。波の彼方からやってきた高皇産霊尊の御子(『古事記』は神産巣日神の御子)で、大己貴神と義兄弟となって一緒にこの国をつくります。
椎根津彦がこの少彦名神の後裔だとしたらどうでしょう。
「制圧した者が制圧された者を祀った」と書きましたが、さらに深堀りして、大己貴神と共に国を作った少彦名神にルーツを持つ氏族が祀ったので鎮まったと解釈することもできます。
共に国を作った少彦名神は、波の彼方からやってきたという記述から、海神で、海人族として描かれる椎根津彦との関係を見いだせます。
少彦名神の特徴は、コロボックル(小人)と描かれることと、出雲神話に登場するにもかかわらず、出雲の神が誰も知らない神として登場し、カエルやカカシに聞いて初めて素性が知れると記されることです。このことから、出雲の神ではなく、カエルやカカシから連想する田に関わる神、すなわち稲作を伝えた神だと考えることができます。そして少彦名神は仕事を終えて常世国へ渡って行きました。
沖縄で発見された港川人は小柄だったようです。また沖縄には古くからニライカナイ。海の彼方の神の住まう理想郷があることが信じられています。海の彼方からやってきて、常世国、神の住まう理想郷へ渡った。これはまさに少彦名神のことじゃないですか! ジャポニカ米の伝播も、中国雲南で始まったとされる稲作が「台湾を経由して島伝いに来た」とする説もあります。
宮崎県の青島神社は、神武天皇の祖父 彦火火出見命、祖母 豊玉姫命、神武天皇に大和行きを勧めた塩筒大神(塩土老翁)が祀られていますが、境内摂社 海積神社には、豊玉姫の父 海神豊玉彦命と共に少彦名命が祀られています。私は、豊玉彦と少名彦神は同じ系統の神だと思っています。
椎根津彦は、大和神社の日本大國魂神である大己貴神と共に国土を作った(稲作を広めた)少彦名神を遠祖とする、奄美・沖縄など南方にルーツを持つ海人族であると考えたらどうでしょうか。
『記紀』はエピソードの組み立てを繰り返し使うことが多いです。大己貴神を助けて共に国づくりを行った少彦名神に対し、神武天皇を助け東征を導いた椎根津彦。 二つのエピソードが少名彦と椎根津彦を関連付けていると考えてもおかしくはありません。
大和神社の記事で書いたように、倭大国魂神が大己貴神だとするだけでは、山上憶良の歌『好去好来』に倭の大国魂が詠まれるとは思えず、戦艦大和も名前が同じだったから守護神にしたではあまりに軽薄な動機にみえます。
延喜式に三座と記される大和神社のご祭神。当初は「制圧された側の神」倭大國魂神と、「制圧した側の神」天照大神。そして倭直氏の遠祖 少彦名神の三座だったのかも知れません。
この妄想、いかがでしたか? 着想は良いと思うのですけどね。まぁ、誰もこんなこと言っていないし、あくまで私の妄想ということで(笑)
青海首とは
青海首の話しに戻しますと、私は御戈命が出雲系で元々地元の豪族であったとは考えず、崇神天皇の巻に記される四道将軍に絡むと思っています。
これもあくまで想像ですが、北陸道へ派遣された大彦命に隋判した倭直氏の御戈命が、久比岐国の統治を任された。それがのちに青海首となる一族ではなかったかと考えています。(のちの時代ですが、若狭国(福井県西部)、高志国には大彦命の後裔氏族が国造に定められます)。
氏名の由来は結局わかりませんが、今なお開拓地に祖神を祀る神社が四社もあることからも、ヒスイの利権をもつ青海首一族は繁栄したことが伺えます。 そう言えば、大彦命の御子で、東海道へ派遣された武淳川別命や第二代綏靖天皇の和風諡号 神淳名川耳天皇も奴奈川姫や翡翠と関係するのでしょうか。。
四道将軍については下記記事で少しふれていますので、よかったらご覧ください。
おまけ
「ルマンド」ってお菓子ご存知ですよね。ブルボンというメーカーのロングセラー商品。今回柏崎市を訪れたら、駅前にブルボンの本社がありました。ここが本社だったんですねー!知らなかった。
で、向かいにある食堂で昼食にしました。
いつもの2倍近い文字数。長文にお付き合いいただきありがとうございました。次回、「神武東征の旅」はいよいよ最終回です。