第9話 五瀬命死す その2
神武東征の旅 第9話 五瀬命死す その2
五瀬命が「賤しい奴のために手傷を負って死ぬのか」と怒り嘆いてお亡くなりになった。それでその港を男水門という(古事記)
「日本書紀」は、亡くなるのは紀国 竈山、雄たけびをあげたのは茅渟海の山城水門でした。
和歌山市にある水門吹上神社に、「古事記」に記す男水門の顕彰碑があります。
〝記紀〟共に、墓は竈山と記します。和歌山市和田の 竈山神社。本殿の背後に彦五瀬命の墓と伝わる竈山墓(宮内庁治定)があります。
Flood Mapsで(もし東征の時代今より海面が高かったとしたら?と思って)海面を2m上昇させてみましたが、赤丸の竈山神社の位置は内海に突き出た岬の先端でした。
五瀬命の埋葬を終え、「古事記」は男水門から熊野へ向った。「日本書紀」は、「名草邑で名草戸畔という女賊を誅殺した」と記します。
日本書紀の日付を確認してみましょう。
2月11日 吉備国 高嶋宮を出発
3月10日 河内国 草香邑到着
4月 9日 進軍開始
孔舎衛坂で長髄彦軍と戦う
5月 8日 茅渟の山城水門到達
紀伊男水門に着く(古事記)
五瀬命亡くなる
竈山に埋葬する
6月23日 名草邑に着く
名草戸畔を誅殺
熊野へ向かう
紀伊山地を越え吉野から兎田へ
8月 2日 兎田(宇陀)
結構ハードな行軍ですね。特に6月23日名草邑到着から8月2日宇陀まで。熊野から紀伊山地を越えて宇陀ですから、距離や険しさから考えて日数が短いです。なので、ここで名草軍と長期間戦ったわけではなさそうです。
竈山神社と名草邑顕彰碑がある場所はいくらも距離がありません(今の道路で約2キロ)
地元では、名草戸畔の遺体を頭、胴体、足に分けて、頭を「宇賀部神社」[おべこ(頭)さん]、胴体を「杉尾神社」[おはら(腹)さん]、足を「千種神社」[あしがみさん]に埋めたとし、さらに、首領 名草戸畔は戦死したが、名草軍は負けなかった。神武軍は紀の川を遡れば容易に大和に到達するのに、名草軍に阻まれやむを得ず熊野へ向かったのだと伝わります。
これは一理ありますね。紀の川を往来し紀伊と大和は縄文時代から交流があります。結果的に皇軍は宇陀から内つ国(奈良盆地)へ入るのですが、紀の川・吉野川を行けば宇陀に行けますからね。熊野へ迂回したという事は地元伝承の通り名草軍の抵抗があったのかも知れません。
こういう想像するのは楽しいですよね(笑)。まぁ、理由はともかく熊野へ向かった皇軍にさらなる苦難が待ち受けていました。次回は「熊野へ」です。お楽しみに〜!