淡路島。 御井の清水と五斗長垣内の鉄器工房
欠史八代 第四話 第三代 安寧天皇 前編
記事を書くのが難しい欠史八代シリーズ。第三代安寧天皇についても事績が残っていません。そこで何を書こうかと考え、『古事記』を読み返してみると、なんということでしょう! 何度も読んできたはずなのに、今まで完全に見逃していた記述がありました!
・・と言うのは冗談で、以前からその記述は知っていましたが、どう解釈すればいいのか答えが見つからず、自分の中で放置していたのです。
淡道の御井宮
『古事記』によると、安寧天皇の第三皇子である師木津日子命には二人の王(子供)がいました。一人は名前が記されておらず、ただ伊賀・名張・三野の稲置(稲の収納を職務とする地方官)の祖先とだけ記されています。もう一人の王である和知都美命は「淡道の御井宮」にいると記されているのです(この記述は日本書紀にはありません)。
天皇以外で「宮」と記されるのは非常に稀なことです。
冒頭申しあげたように、和知都美命がなぜ〝淡道の御井宮〟にいたと記されるのかわかりません。でも、何事も自分の目で確かめたい性分なので、今回その「御井宮」と思われる場所を訪れてみました。
そもそも淡道が淡路島かどうかという議論もありますが、仁徳天皇紀に、朝夕に淡路島の清水を汲み天皇の飲料水を運んだとされる「御井の清水」が淡路市佐野小井にあり、その「御井の清水」の場所が「淡道の御井宮」ではないかという説があるので、その場所へ向かいました。
御井の清水
御井の清水を訪れましたが、現地では御井宮に関してこれと言って得るものはありませんでした。
『古事記』の当該部分を確認してみましょう。
和知都美命には二人の娘がいて、どちらも第七代孝霊天皇の妃となりました。姉の名は蠅伊呂泥で、別名 意富夜麻登久邇阿礼比売命。『日本書紀』では倭国香媛とされています。彼女は、知る人ぞ知る箸墓古墳に葬られた夜麻登登母母曽昆売(日本書紀では 倭迹迹日百襲媛) (卑弥呼だという人もいます)。そして、桃太郎のモデルといわれる比古伊佐勢理昆古命(日本書紀では彦五十狭芹彦命またの名を吉備津彦命)の母です。妹の蠅伊呂杼も吉備臣の祖である若日子建吉備津日子命(日本書紀稚武彦命)の母です。
つまり、卑弥呼の弟が桃太郎・・
いえいえ、そういう話しではなくて、、整理すると、
安寧天皇−師木津日子命−和知都美命−蠅伊呂泥・蠅伊呂杼−倭迹迹日百襲媛命(紀)・吉備津彦命・稚武彦命 (紀)
「巫女」や「吉備」というキーワードが浮かびます。
そして、「ハエイロネ」や「ハエイロド」という変わった名前ですが、「イロ」は同母姉妹という意味。同じ母親から生まれた姉妹を意味します。「ネ」は姉(兄)、「ト(ド)」は妹(弟)を指します。つまり、「ハエイロネ」は同母の姉ハエを、「ハエイロド」は同母の妹ハエを意味します。「ハエ」という名前については、初代神武天皇の皇后である 姉の媛蹈鞴五十鈴媛命や、第二代綏靖天皇の皇后である妹の 五十鈴依媛命には、 天日方奇日方命という兄弟がいました。この天日方奇日方命の子が波延(葉江) またの名を鴨王といいます(諸説あり)。その波延の娘の阿久斗比売(日本書紀は渟名底仲媛命)が安寧天皇の皇后です。ハエ姉妹は波延の玄孫ということになります。
五斗長垣内遺跡
さて、この欠史八代シリーズの最初に「倭国大乱と欠史八代」というタイトルで記事を書きました。その中で、倭国大乱の戦乱を避け吉備や出雲から人や技術が入ってきて大和は急速に発展を遂げたのではないかと書きました。
その考えにおいて、淡路島には大変興味深い遺跡があります。淡路島の西岸に、「五斗長垣内遺跡」という、1〜2世紀のあいだに100余年間続いた鉄器工房跡です。
この鉄器工房は倭国大乱の時期に姿を消します。一体誰がどこから鉄素材を運び、なぜこの地域で鉄器(矢じりなどの武器やノミなどの工具。※農具は無し)を作ったのでしょうか? そしてなぜ倭国大乱の頃にこつ然と姿を消したのでしょうか?
『古事記』や『日本書紀』で、淡路島が屯倉(直轄地)と記されるのは第十四代 仲哀天皇の御代です。しかし、それ以前に第三代 安寧天皇の孫である和知都美命が住んでいた場所を「宮」と表現し、娘の蠅伊呂泥と蠅伊呂杼が、淡路島から第七代 孝霊天皇へ嫁いだ事を記す事に意味はあるのでしょうか?(古事記)
蠅伊呂泥の別名として 意富夜麻登久邇阿礼比売命(『日本書紀』では倭国香媛)の名があり、「大倭国の高貴な姫」(「アレ」は高貴なという意味)と読み替えることができますが、これは意味があるのでしょうか?
また、ハエという名前についてですが、波延(鴨王)との関連から、これは大己貴神の直系一族を表しているのでしょうか? さらに、ハエ姉妹の子が吉備津彦と稚武彦であることから、出雲と吉備の関係を示唆しているのでしょうか?
「五斗長垣内遺跡」は淡路島の西岸に位置し、その海の先には播磨・吉備国が見えますが、この遺跡は吉備と関連するのでしょうか?
弟磯城、別名を黒速、またの名を天日方奇日方命(諸説あり)は、神武東征の功績によって磯城県主に任じられ、その子波延の子孫は初期天皇に連続して皇后を輩出した大己貴神(大国主)の直系子孫の一族です。
ところが、第十代崇神天皇の御代には、この一族の行方は知れなくなっていました。そこで、大物主神を祀るために天下に布告し、見つけだしたのが茅渟県にいた大田田根子です。探し出す際には倭迹迹日百襲媛によって占われ、その後、倭迹迹日百襲媛は大物主神( 大己貴神の和魂)の妻となりました(日本書紀)。茅渟県陶邑は現在の大阪府堺市であり、茅渟県と淡路島は大阪湾を船で往来が可能です。
もう少し頭の中を整理して、孝霊天皇か崇神天皇の記事でこの謎解き、いえ私の妄想を、書いてみたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。
おまけ
遺跡を眺めながらランチ。