ニギハヤヒの伝承地を訪ねる③ 大和郡山市で『「日本書紀』と〝物部氏〟の因縁を考えてみた。
饒速日命が宮居した 鳥見の白庭山に関する伝承地がいくつかあります。今回は、大和郡山市矢田地区の伝承地を訪ねました。生駒山地の麓に広がる矢田丘陵には、哮峯に天降った饒速日命が宮を決めるために3本の矢を放ったと伝わり、それが〝矢田〟の地名の由来とも言われています。
二之矢塚
順番前後しますが、二之矢が落ちたのは矢田坐久志玉比古神社。
一之矢伝承碑
神社から南へ500mほどのところにありました。これを探すのには苦労しました(泣)。碑の近くに主人神社があります。
三之矢伝承碑
神社から北へ500mのところにありました。
こちらには伝承邪馬台国想定地と記された碑もあります。
正直私はこの地が邪馬台国だとは思えませんが、饒速日命を祖神とする物部氏の拠点があったかも知れないとは思います。
富雄丸山古墳から、過去に類を見ない盾形の銅鏡や蛇行剣が出土しました。この古墳は矢田坐久志玉比古神社の北に位置し、歩いて30〜40分の至近距離です。4世紀後半の円墳ですので、築造年代からすると佐紀盾列古墳群の被葬者と同じ時代の物部氏の墓かも知れませんね。
「古事記」は、大和入りは神武天皇が最初と描きますが、「日本書紀」は饒速日命が先に天降ったと記します。私は物部氏の伝承を比較的フラットに記す「日本書紀」の記述を元に伝承地を訪れています。しかし、日本書紀がなぜ物部氏に詳しいのか?という疑問もあって、いくつか考えられる事を書いておきます(全て私の推測です)。
第一の推測
681年天武天皇の命で始められた国史(日本書紀)の編纂事業。途中、691年に持統天皇が18の氏族に対して祖先の纂記(氏族の系譜や事跡などを記した文書)の提出を求めます。
大三輪(大神)、雀部、石上(物部)、藤原、石川(蘇我)、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇以上18氏族。
平安時代に編纂されたとされる「先代旧事本紀」の元となる石上(物部)氏や穂積氏の記録が日本書紀編纂当時にすでにあったという推測。
第二の推測
日本書紀の完成は720年ですが、704年に右大臣となり、日本書紀編纂段階において長く太政官の最高位にあった石上麻呂(717没)の関与があったのではないかという推測。
これに関しては、よく藤原不比等の関与があったのではないかという話しがありますね。それもあったかもしれません。ただ、日本書紀が奏上されたのが720年。その年の8月に不比等は亡くなっています。藤原氏が絶大な権力を持つのは不比等の子 藤原四兄弟以降の話し。不比等の生前は長屋王など皇親勢力(舎人親王も)もまだ力を持っていて、不比等一人が(トンデモ説で扱われるような)歴史を大きく塗り替えることができたとはとても思えません。
第三の推測
これは推測というより妄想ですが、矢田丘陵に饒速日命の宮伝承が伝わることは先ほど書きました。延喜式神名帳に大和国添下郡十座の筆頭社で式内大社矢田坐久志玉比古神社のご祭神 久志玉比古とは饒速日命のことです。また、車で10分ほど走ると饒速日命の12世孫 物部小前を祖とする登美連が祀る登弥神社があります。このように当地は物部氏と縁の深い土地です。
天武天皇と舎人親王が開基したお寺
この地で、大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の戦勝祈願を行い、即位後に祈願した矢田山に赴き開基されたのが矢田寺。そしてその南側松尾山には、日本書紀編纂の総裁を務めた天武天皇の皇子 舎人親王が、日本書紀の完成とみずからの42 歳の厄除けを祈願したのが創建と伝わる大和 松尾寺 。
さらにさらに矢田坐久志玉比古神社から北西へ20分程歩けば、こちらも舎人親王が母の病気平癒のために開基したと伝わる東明寺があります。
物部氏の祖神を祀る当地に、日本書紀編纂の命を下した天武天皇、日本書紀編纂の最高責任者 舎人親王が寺を開基したというのは浅からぬ縁を感じます。
もう一つ言い忘れました。壬申の乱の勝利に最も貢献した氏族は尾張氏です。饒速日命の子 天香語山命の後裔氏族と言われています。
だからどう?それがどうした?という話しなんですけど、一応頭の片隅に置いていただけたらと思います☺
次回は、奈良県生駒市の伝承地を訪ねます。
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