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【後編】大江健三郎「セヴンティーン」太宰治「女生徒」  書評

太宰治をよんでいた時期は、ちょうど今から一年前のことだったことを覚えている。太宰治といえば、「人間失格」であり、「人間失格」といえば中高生がこのんで読んで、「人間失格」で読書を習慣的にするようになったというひともおおい。私もそうしたひとをおおくみてきた。

私はといえば、読書をはじめるきっかけはぜんぜん「人間失格」ではないし、もっと個人的なことをいえば「人間失格」なんておもしろくないと思っている。今から一年前、ひょんなことから太宰治を読むようになって、もちろん「人間失格」に手をのばしたが、「人間失格」だけついぞ読み終えることができなかった。どうしてか、かれが情けなくてみていられないからである。

やれ、「…なのでした」とか、「私なんか…」とかそういうな、なよなよした枕詞がとにかく癪にさわった。こんなもので読書にはまることはおかしいと思うようになった。

太宰治の魅力的なところは、語り手が女性になったとき、かれがとたんに気品あふれる白い肌の美人に変貌するところだろう。「女生徒」にかぎらず、女性一人称でかたられる小説のすべてが魅力的にかんじられる。それは、かれが女性のことをよくわかっているからとか、女という生き物にたいする造詣が深いとか、そういう理由ではない。文体にある「息遣い」が女性のものだからである。私はすぐに虜になった。まずはじめによんだものは「斜陽」だった。それから「女生徒」。「皮膚と心」、「ヴィヨンの妻」。

角川文庫からでている「女生徒」はそのほかいくつかの短編を収録しているが、そのすべてが女性による一人称であり、読みつつうっとりするのにはうってつけである。装丁もピンク色でかわいらしいところも良い。


ある少女の一日


朝は、まず目が覚めるところからはじまる。

朝は、意地悪。
「お父さん。」と小さい声で呼んでみる。へんに気恥ずかしく、うれしく、起きて、さっさと蒲団をたたむ。蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、よ掛け声して、はっと思った。私はいままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思っていなかった。よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。

「朝は、意地悪」とか「眼鏡は、お化け」など印象にのこるのは文頭のフレーズ。読点できざまれた文章がおぼつかない少女の息遣いをおもわせる。
かれは完璧に少女の息遣いを模倣している、すげえ。
さて、私は女性ではないのでほんとうのところはわからないが、すくなくとも私をうっとりさせられるだけの完成度はあった。一読したときはうんうん唸ったまま読了した。ただ、話の内容なんてほとんどはいってこなかったし、何がかかれていたかなんてすぐに忘れてしまった。「女生徒」だから学校のことか。ぜんぜんそんなことはない。

ただ、二回目読み返したとき、ひっかかるところがあった。

先生の画は、きっと落選だ。美しい筈ないもの。いけないことだけれど、伊藤先生がばかに見えて仕様がない。先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない。

この一文にはいいようのない気持ち悪さのようなものがかんじられて、それがどこからくるのか、「私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない」というフレーズにほんの違和感をおぼえた。
少女然、とした言葉である。女性性がめばえはじめた身体に自覚をもち、そうした自意識が男性を煽るのである。だから、このフレーズからよみとれるものはとても単純な意味なのであるが、少女の面影のうらに、「おっさん」を垣間見てしまう。

そうだ、もちろん太宰治は少女などではなく「おっさん」である。「おっさん」が少女の語りを想像してかいているのが「女生徒」である。ただ、「おっさん」が見えてしまったときに、少し萎えてしまった。下着のことを言うのは、なるほど大胆なことだ。その大胆さはどうにも少女らしさというより、実直に男性を煽っているから、その対角線上に「おっさん」がみえてしまった。

物語に作者は関係あるのか


ただ、小説のなかに目をこらして「おっさん」を探すのは意地悪な読み方だと言うべきだろう。もちろん「女生徒」を読んだのは太宰治が書いたからだが、物語を解釈するために作者のそんざいを意識することに意味はない。

以前「推し、燃ゆ」の書評を書いたときに、作品内における「儀式」的な側面に言及したが、私の挙げたたとえは、その箇所で一見作者が「儀式」を意識してかいたとはあまり思われないのである。しかし、そういうことは関係ない。

「どこそこに共感する」という感想はけっこう大事で、たとえば「人間失格」に「共感」した読者も多いことと思うが、なぜ70年ほど前に書かれた小説にわれわれは共感するのか。戦後の東京は焼け野原だったし、2020年代の東京には高層ビルがたちならんでいる。われわれはスマートフォンをつねに携帯し、それはもはや拡張された身体の一部といってもいいくらいに必要なものとなっている。こんなにも違うのに、どうして共感できるのか。

共感という感想が嘘だというわけではない。物語が人間主体のものであるからこそわれわれは共感するのだ。物語のもつ射程は、われわれの身体がおおきくかわらないかぎり、のびつづけるだろう。なぜならばまず自意識があり、それを囲う身体があり、それを囲う生活空間がある。トイレはなくならないし、台所もなくならないだろう。

物語が時代性とともに批評され、消費されるのはその次のことだ。太宰治はかれ自身のなかに少女性をみつけ、それを忠実に再現した。そういう面で模倣という表現はまちがいかもしれない。


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