私たちはなぜ一生懸命な人を応援したくなるのか?
どうしてだろう?
なぜだろう?
なぜ私たちは一生懸命な人を
応援したくなるのだろう?
生きていると、心揺さぶられる瞬間に立ち会った経験が誰にでもひとつやふたつある。
それは例えば、結婚式で花嫁を涙ながらに送り出す見ず知らずのお父さんであり、最後の夏に燃える高校球児であり、痛みに耐えて頑張る貴乃花であり、子どもたちが一心不乱に歌って踊る発表会であり、悪鬼滅殺と刀を振るう竈門炭治郎であり。
全てに共通するのは「一生懸命さ」であるように思われる。誰かの「一生懸命さ」が私たちの琴線に触れた時、たとえそれがフィクションの世界だとしても私たちは思わず涙を流す。
その一生懸命さを披露する舞台にいたるまでのプロセスを私たちが知っていると、ことさらに心揺さぶられる。
なぜだろう。
私たちは無意識で理想を持っている。
どんな理想かと言えば「自分は一生懸命でありたい」という理想だ。しかし、どうにもうまく一生懸命になれない。物事を継続してやろうという意志が保てず、最後の最後の一踏ん張りが、その一歩が出ない。他人の目も気になるから。
世の中には、一生懸命に物事に取り組むことが当たり前になっている人たちがいる。彼ら彼女らにとっての一生懸命とはもはや食事・皿洗い・歯磨きのごとく、当然の「作業」ですらある。
一生懸命が日常になっている人たち。
それは家族のために働くお父さんお母さんであり、甲子園での初勝利を目指す球児たちであり、日本古来の伝統を取り戻そうとする満身創痍の横綱であり、他人の目を気にすることを知らない子どもたちであり、自らと仲間を鼓舞し続けるフィクションの世界の主人公である。
彼らは論理・合理・効率主義の壁を、
いともたやすく超える。
彼らの辞書には、
「妥協」「言い訳」の文字がない。
理想を叶えようとする彼らの最後のひと踏ん張りは、現代的な観念を超える。
なぜ私たちは、一生懸命な人を
応援したくなるのか?
それは私たちが自分の理想を、そういう人たちに託しているからだ。信じて託しているからだ。私たちがギリギリ出来ない、一生懸命であるべきという理想を、彼らが体現してくれるからだ。
だから一生懸命な人を応援したくなるのだ。
そこで自分に問いかけてみる。
今日1日、いや、それよりも前から、
自分は一生懸命であったか?
理想からは程遠い。
私はまだまだ。
明日から、明後日から、来月から、自分は一生懸命であろうとしているか?と自分に問いかけてみる。
この質問が「YES」なら大丈夫。
あなただって、私だって、誰だって、
一生懸命な人にいつからでもなれる。
応援される人にいつからでもなれる。
応援されなくてもいい。
ただ、一生懸命でありたい。
きっと誰かが見つけてくれる。
明日から、明後日から、来月から、
自分は一生懸命であろうとしているか?
私は「YES」だ。
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