見せない努力、見られる勇気
今の若い人たちは「優雅に見える白鳥も、水面下では激しく足を動かしている」というフレーズ、聞いたことがあるのでしょうか?
このフレーズは「努力を見せない」ことの比喩表現として、昭和のビジネスマンの間でよく使われていた…と思います。
余談ですが、実際の白鳥は羽毛にたくさんの空気を含んでいるので、激しく足を動かさなくてもいいのだそうです。
この日本人独特の美徳のような価値観は、無自覚に親から子に伝播し、見えない鎖のように、私たちの潜在意識を縛り付けているように感じます。
…とは言え、この感覚が果たして20歳ほど違う若年層も感じているのかは疑問ですが…。
さて、今回は「努力と勇気」という少年漫画のようなテーマで書いてみようと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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日本人独特の美徳
最初に定義を引用したいと思います。
【徳】
徳は、人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性が発揮されたものである。徳は卓越性、有能性で、それを所持する人がそのことによって特記されるものである。人間に備わって初めて、徳は善き特質となる。人間にとって徳とは均整のとれた精神の在り方を指すものである。これは天分、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、善き人間の特質となる。徳を備えた人間は他の人間からの信頼や尊敬を獲得しながら、人間関係の構築や組織の運営を進めることができる。(Wikipediaより)
【美徳】
うつくしい徳性。道徳にかなった立派な行ない。また、よい心。
(精選版 日本国語大辞典より)
「徳=あったらいいもの」、「美徳=さらにあったらいいもの」といったところでしょうか。
では日本人独特の美徳とは何でしょう?
ぜひ考えてみてください。
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日本人と多様性
…どうでしょうか?
真面目・謙虚・侘び寂び・実直・謙遜・空気を読む…などなど。
文脈依存度が非常に高いとも言われる日本の言語表現では「有言実行」よりも「不言実行」に高いヒエラルキーを与えています。
これは「克己心」といった言葉の存在が物語るように、他人ではなく自分に克つことこそが卓越性・有能性の象徴であるといった文化そのものを表していると思います。
アメリカやヨーロッパ諸国とは一線を画す文化は独自性を築き、異国情緒あふれる国として観光に力を入れるようになりました。
事実、世界フォーラムが2年に1回発行する「旅行・観光競争力レポート」で、日本はスペイン・フランス・ドイツに次いで4位でした。
(2019年のデータを参照)
…ここで述べたいのは、極論「日本人は、世界から見れば変わっている」ということと、上記の「日本人の美徳」という価値観で世界を判断することは、他国に比べて多様性に寛容とは言えないのではないか?という疑問です。
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「徳」に縛られている
日本人独特の美徳で挙げた項目というのは、おそらくは諸外国の方から見た日本人像なのではないでしょうか?
ただし、留意したいのは「不言実行」や「黙して語らず」といった、要するに「空気を読みつつ、自分に与えられた役割を果たす」ことに対して、日本人が世界的に優性であると錯覚することです。
「努力は人に見せるモノじゃない」は、日本では美徳かもしれませんが、このグローバリゼーションが謳われる社会では、あくまでも一つの考え方でしかないということです。
そして、「日本人独特の美徳」という考え方では、持続的で多様的な社会を生き抜くことが難しいと私は考えています。
ある意味では、優性ではなく劣性な考え方になりかねないリスクを、しっかりと理解する必要があるのではないでしょうか?
「見せない努力」は、属人化を加速させます。
個人の価値には限界があります。
属人化されたタスクをいくつも抱える企業に、競争優位性はあるのでしょうか?
日本経済の低下は、人々の「誇り」が「驕り」に変容したことも要因だと思っています。
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日本経済は弱い。
日本人は、世界的に優れているワケではない。
私たちは個人レベルでは、少しづつ自分と向き合い、変わり始めています。
この流れが個人で止まることなく、マクロな意志として広まることが、鬱積した私たちの生活を豊かにするのだと思います。
そこで求められるのが、「見せない努力」を開示し、「見られる勇気」に変えていくことではないでしょうか?
一つの小さな勇気は、次の勇気を呼び起こします。
私たちは、もう十分に「努力」のフェーズを終えているのだと思います。
次は「勇気」をもって社会性を獲得していくことが、明日の力になるのではないでしょうか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。