仕事に塗れる。
まみ・れる【▽塗れる】
1 泥・汗などが一面にくっついて汚れる。「泥に—・れる」「汗に—・れる」→一敗地に塗れる 2 問題を多く抱えて困った状態である。「汚名に—・る」
…あまりいい言葉ではありませんね( ̄▽ ̄;)。
ですが、私はこのような状態を乗り超えたからこそ輝くモノがあると考えています。
ということで、今回は「塗れる」という言葉について考えてみようと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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塗れて起こる現象
陶芸などでは、当然のことながら手が汚れます。
普段の生活で、手の色が変わるくらい何かに塗れることなど、多くの人はないことでしょう。
常に清潔を保ち、肌の保湿に配慮し、美しく在りたいと思う方も多いことでしょう。
私の知り合いに「料理が嫌い」という方がいるのですが、その中に「手が汚れるから嫌だ」という理由を掲げる方がいます。
ハンバーグのタネを捏ねたり、トンカツに卵やパン粉をつける作業を素手で行うのなんて信じられないのだとか( ̄▽ ̄;)。
…まあ、その人の価値観についてはさておき、私は手が汚れる作業はあまり苦になりません。
むしろ好きな方かもしれません。
陶芸や研磨作業は、手が汚れに塗れるほどに、作品は美しくカタチを成していきます。
おかしな日本語に聞こえるかもしれませんが、「塗れるほどに美しく」なっていく過程が、たまらなく気分が高揚するのです。
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いつからか…
幼い頃、今考えたら不思議なくらい、絵具を使って手を汚した経験がある方も多いのではないでしょうか?
白いキャンバスでは足りないくらいの創造性が、自らの手すらも自己表現の手段していたのかもしれません。
自由と創造
誰もが幼少期には、自身の可能性を信じて疑わなかったと思います。
ですが、いつからなのでしょう?
知らず知らずのうちに、窮屈な世界観に身を潜め、目の前の出来事のみが全てだと思うようになってしまったのは…。
「塗れる」とは、「汚れる・困る」といった語意ではありますが、その行為自体が悪ではありません。
にもかかわらず、私たちはいつの間にか、「汚れる(困る)ことは悪いこと」だと思ってしまっているのではないでしょうか?
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「スマートさ」は「脆さ」でもあるのではないのか?
スマートフォンやパソコンに代表されるように、私たちの周りには機械…というよりも精密機械が着実に生活の基盤を築いています。
そのような社会で、手が泥や油に塗れていては、生活できないのは否めません。
スマートフォンやパソコンのキーボードを泥だらけの指で触る人はいないでしょうし、ポテトチップスの油すら嫌がる人も多いでしょう。
文字通り、スマートに操作することがデファクトスタンダードな社会は、洗練された美しさがあるのでしょうが、私はそこに脆さを感じることもあります。
それは物質的な話だけではなく、社会そのものにも言えることなのではないのでしょうか?
塗れることに及び腰になって、その先にある力強さを兼ね備えた美しさを諦めてしまってはいないでしょうか?
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自然の美しさとは、塗れてこそ輝くのではないか?
人が自然美や造形美、機能美に憧憬を抱くのは、もしかしたら、自らが諦めてしまった劣等感から生じる感情なのかもしれません。
植物は種子のうちは土に塗れ、生育過程では雨風に塗れ、それでも花を咲かせるからこそ、人の心を打つのではないかと私は考えています。
人も同じで、陶芸家は泥に塗れてこそ美しい器を輩出し、成功者は汗に塗れてこそ成功を掴み取るのだと思います。
だとするならば、私たちも自らが輝くためには、何かに塗れる覚悟が必要なのだと思います。
それは、物理的な状態にとどまらず、仕事においては、その置かれた環境下で、諦めずに塗れ続けることだと私は考えます。
辛いとき苦しいとき、引くことも勇気ですが、抗う勇気も、もう一度絞り出してみてはいかがでしょうか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。