行動には、ときに「副作用」があることを忘れてはいけない
あなたは、明るい未来と暗い未来のどちらを希望されますか?
…おそらく100人いたら99人が「明るい未来」を望むことと思います。
では、あなたにとっての明るい未来とは何でしょうか?
お金があればいいですか?
社会的地位を求めますか?
人間関係に恵まれることですか?
世界平和ですか?
いろいろな明るい未来のカタチがあると思います。
そんな明るい未来を手に入れるため今を生きるあなたに、直面する前に知っておいて欲しいことがあります。
それが、今回のテーマとなる「行動の副作用」です。
どんな内容なのでしょうか?
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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まずは、副作用について定義しておきます。
ふく‐さよう【副作用】
① 薬物の、病気を治す作用とは別の、望んでいない作用。有害なことが多い。「副作用を伴う特効薬」
② 転じて、問題解決のためにとった手段によって起こる損害。「金融政策の副作用」
(デジタル大辞泉より)
昨今は①の意味で使われることの多い言葉ですが、今回は②の意味で話を進めていきます。
行動の副作用とは、何なのでしょうか?
さて、冒頭の「明るい未来」の話に戻りますが、今のあなたは、明るい未来のためにどんなことをされていますか?
毎日、読書をされていますか?
ご家族と絆を深めていますか?
勉強されていますか?
祈っていますか?
まだ考え中ですか?
私は「人の役に立つことで自分を認めてあげたい」という漠然とした考えから、今の生活をスタートさせました。
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「人の役に立つことで自分を認めてあげたい」とは、平たく言えば、ある種の「成功を収めたい願望」と直結すると個人的には考えています。
noteには以前に「社会貢献」といった言葉を用いたことがありましたが、いろんな方の記事を拝読させていただいたり、日々の中で考えて行くうちに、そんな高潔な言葉を使っていい人間ではないな、と考えるようになりました。
今の私が考える「社会貢献」とは「権利」です。
噛み砕いて書くならば「社会貢献をするためには社会的な地位や品格が求められる」ということです。
すべての人間が、他人に支えられて生きています。
そして、他人を支えて生きています。
この「他人に支えられている質量」と「他人を支えている質量」…まあ、本来は量ることのできないものですが、この二つのうち「他人を支えている質量」にバランスが傾いたとき、「他人に支えられている質量」との差が、その人の「社会貢献度」だと考えているのです。
つまり「社会貢献」とは余剰資産の運用に近い行為なのではないでしょうか?
他人に支えられている質量が上回っているうちは、社会貢献ではなく自己満足なのでは?と個人的には思います。
以上のことから、今の私が思い描く「明るい未来」とは「社会的に成功すること」と結論付けることができるでしょう。
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何らかの形で成功を収めたい、と考えている方は私だけではないはずです。
お金が欲しい、社会的地位が欲しい、素敵な人間関係を構築したい、世界平和に貢献したい…。
これらが実現した状態を成功と呼ぶのなら、ほぼ全ての人が成功者でありたいと考えるはずです。
そして、今は成功にまつわる多くの情報に、誰もが簡単にアクセスできるようになっています。
成功になるために、どうすればいいのか?
あなたも一つくらいは、どこかで見聞きしたことがあるのではないでしょうか?
いくつも出回っている「成功になるための秘訣」。
その中で「自分の周りに尊敬できる人間だけを置く」というものがあります。
嘘か本当かはさておき、今の私の周りには尊敬できる人間が非常に多く存在します。
…尊敬できる人間「だけ」と断言できないのは残念でもありますが…(笑)。
とは言え、尊敬できる人間とのコミュニティにのみ意識を向けていると、一般的な社会とは次第に隔たりができていきます。
集団バイアスも働いているのでしょうが、つい先日、個人的に衝撃だった出来事に直面しました。
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私は複数のコミュニティに身を置いています。
どのコミュニティでも、向上心や向学心の高い方が多く、とても良い刺激をいただきながら、自分も成長のために行動しているつもりです。
そんな私のところに、新たなコミュニティ創設の意見交換会への招待が来ました。
それが、こちらの過去記事の話です。
一体どのような方々とセッションできるのだろう?と思って、オンラインで開催されたグループインタビューに参加してきました。
他の参加者は、それぞれに自分の考えをしっかりと述べており、私と違う意見については「そういった考えもあるのだな…」と感嘆したりしていました。
私も、普段から感じていることや考えていることを述べさせていただいたのですが、次第に、画面越しでも伝わってくる他の参加者の私を見る目が明らかに異物を見るような目に変わっていくのを感じました。
まるで、自分とは違う生き物だとでも言わんばかりの眼差し。
…実際にどう考えていたのかは分かりませんが、私には、そう映ったのです。
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ファシリテーターの方からは、他の方に比べ、多岐にわたって質問をしていただきましたし、次の機会についても、ご意見をお聞きしたい…と言っていただきました。
大変にありがたい話であり、興味深い試みへの参加でもあったので、次回があるなら素直に参加したいとも思っています。
しかし、他の方の突き刺すような視線が、数日たった今でも忘れられません。
本当は、どのように考えていたのか…?
お聴きしたい気持ちもありますが、心理的な距離を取られていたことは明白でしたので、これは永遠の謎になりそうです。
この出来事から、私はいろいろな気づきを得た気がしました。
まずは、他人の顔色を窺わない勇気をもつこと。
忖度することなく、たとえ一般的な見解とは違っても、自分の意見を貫くことは、ある意味でつらいことだなと感じました。
次に、常に新たなコミュニティに飛び込むことの大切さ。
自分の社会的評価は、自分を全く知らない人との対話で測ることができるのだと思いました。
そして、行動には、ときに副作用があること。
成功するための行動は、自分の意思と反して、多くの方に敵意を持たれる行為なのかもしれません。
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批判や非難をされて、初めて一人前なのではないでしょうか?
自分では成長することを「協創=ともに作りあげる」と考えていても、他人は「競争=ゼロサムゲーム」と捉えているのかもしれません。
成功という概念も、誰かが手に入れたら誰かが失う…と考える方も多いのかもしれません。
進むほどに、幾度となくこのような経験をして、世の中の成功者は生き抜いたのでしょうか?
今ここが、分水嶺なのかもしれません。
他人の目を気にすることは、成功を手放すことであり、成功を手にすることは、他人から批判や非難をされ続けることなのでしょう。
しかし、この批判や非難こそが他人を支えるなどという思い上がりの副作用であり、同時に乗り越えるべき障壁なのかもしれません。
他人に理解されなくとも、それが進むべき道なら、私は進もうと思います。
あなたはどちらを選択しますか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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