あの日から、棘は刺さったまま。
ちょっと過去の自分の投稿を、かいつまんで見返してみました。めっちゃ恥ずかしい(笑)。
ざっくりですが、私の投稿は3パターンです(ジャンルではなく傾向としての話)。
①承認されたいと思う私。
自分のことを開示することで、自分を知ってもらいたい、そして、認めてもらいたいという感情が見え隠れすることが、ぼちぼちあります。
今の自分は嫌いではありませんが、自分で自分を認めてあげるには、何か「結果を伴う努力」を望んでいる感じがします。
それは、おそらく私自身の「(自分を含む)誰かの行動を認める基準」が「結果に見合う努力があるのか?」と考えているからだと思います。
これは、「誰か」と言っていますが、自分に対してです。なぜならば、私はいわゆる「器用貧乏」というやつで、大抵のことは努力せずともある程度の結果を出せてしまう人間なのです。(そして努力がないのであまり認められない)
時に、人一倍の努力をされている方、自分を不器用と考えている方には、器用な人間というのは羨望の対象となるのかもしれません。ですが、個人的な意見ですが、「なんとなく」出来てしまう人間は浅薄です。
努力が報われるかどうかはさておき、「努力できる」ことが才能なんだと私は考えています。私は痛い目を見て、ようやく努力の大切さに気付いた人間なので、皆さんには、出来れば心が折れるような事とは無縁でいてほしいと思っています。
②おどけているように演じている私。
私は基本的には「クソ真面目」で、つまらない人間です。ですが、年の功もあってか、そういった部分を隠して社交的に演じることは出来ます。
このnoteでも、そういった部分はあると感じています。もっとも、これは別に悪いことではないと思いますし、人間誰しも大なり小なり「ペルソナ」で、本来の自分を守っていると思っています。
…こんなことを書いていますが、ふざけたりおどける私も、私の一部なのは認めます。ただ、悲しいかな「笑いのセンス」がないのです(;'∀')。
どうなんでしょう?関西圏に生まれていたら、そのあたりの素養も養われたのでしょうか?んー、ちょっと関西の交遊関係を増やしてみようかな(笑)。
③思いやりの心がある私。
自分でこんなことをいうのは、正直どうかと思いますが、私の生来の性格は「思いやりがあるところ」だと思っています。
博愛主義とまでは行きませんが、お人好しでおせっかいで自分のことより他人のことを優先する人間「でした」。
今の私は再び、このような感情が湧くときがあり、そういった投稿をすることもできるようになりましたが、心の中では反動があります。
あまりいないと思いますが、皆さんの中に、自分に近しい方に「偽善者」だと罵られた方っていますか?
私はあります。
単純に良かれと思った行動に、勝手に裏があると詮索され、非難され、罵声を浴びる。近しい人の言葉だけに、心に深く突き刺さります。
夜中、帰宅中に知らない人に声を掛けられ、「ちょっと道に迷ってしまい、スマホの電源も切れて、現金の持ち合わせがありません。」というケースがあったとします。というか、実際に遭ったことですが。
私は「それは大変ですね」と最も近い公共交通機関の道を教え、千円を渡しました。
相手の方が「必ずお返しするので連絡先を教えてください」と言ってきましたが、私は丁重にお断りして帰りました。
後日、この話を近しい友人に話したところ、「そんなん詐欺に決まってる。今時そんな人はいない。バカじゃないの?」とのこと。
頭にくることはありませんでしたが、良かれと思っての行動を全否定されるのは、何とも言えない気持ちでした。
また、とある災害時に、復興支援に向かうと、現地の方に「空き巣でも狙いに来たのか」と言われました。聞けばボランティアと称して、そういう被害があったとのこと。
私は、その日を境に「ボランティア活動」をやめました。ただ、観光客として赴くだけです。
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投稿を継続すると、いろんな自分と出会います。懐かしい自分もいれば、全く知らなかった自分もいます。
ですが、あの日心に刺さった棘は今も私を蝕んでいるようです。
もう少し、投稿を続けながら経過観察です。
ということで、今回の投稿は以上です。
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