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綿谷りさ「いなか、の、すとーかー」レビュー
本記事にはネタバレが含まれています。
純文学作品なのでネタバレはあまり関係ないかもしれませんが、未読の方はお気を付けください。
収録作品
表題作「ウォーク・イン・クローゼット」はよくも悪くも近年の綿谷らしい作品。
もう一方の「いなか、の、すとーかー」が個人的にはかなり衝撃で、びっくりした。
本記事では「いなか、の、すとーかー」を解説する。
文体
久々に読むと、文体が更新されていた。
綿谷さんはそんなに時間を細かく切らないタイプの作家さんだったと思うが、しばらく読まないうちに地の文で時間をサクサクと飛ばすテクニックを身につけたようだ。
中編だからそうしたのか?
初期のような攻めた文体はもう影もないが、成熟の証だろう。
ちょっと寂しい気もする。
綿谷っぽいリズムがまだ建材なのは嬉しかった。
「いなか、の、すとーかー」は男性の一人称だが、正直これが男性だとなかなか認識できなかった。
というのはたぶん、主人公=作者自身として書いているからだろう。
どうしても、女性が一生懸命考えた男性という印象が強い。
男性の下心や功名心、ゲスさもあまり描けていない。
「ストーカー怖い」という話ではない
さて、「いなか、の、すとーかー」だが、これは「ストーカー怖い」という話ではない。
主題は芸術家論。
芸術家とはこういうもので、こうあるべきという綿谷さんの新しく掴んだ信念みたいなものを小説にした内容で、ストーカー云々はそのためのある種道具でしかない。
じゃあなんでこのようなタイトルにしたのかというと、照れ、あるいは作家的韜晦だろう。
タイトルに引っ張られないように慎重に読むとちゃんと主題が見えてくる。
以下、その解説。
あらすじ
「いなか、の、すとーかー」は、新進気鋭の陶芸家・石居がある程度の名声を得たことをきっかけに田舎に工房を移し、そこにストーカーが現れるというお話。
<主要人物>
石居:陶芸家。TVやCMにも起用される。
すうすけ:石居の幼なじみ(男性)。ニート。
果穂:石居の幼なじみ(女性)。ずっと石居が好きで、ストーカー化した。
砂原:石居のファン(女性)。ストーカー。
石居が田舎の幼なじみと協力してストーカー(砂原)退治に乗り出したところ、なんとそのうちの一人、主人公を「お兄ちゃん」と慕う果穂もストーカーだった!
このダブルストーカーのショックが強く、描き方が強烈なのでついそっちに引っ張られてしまうが、それは主題を引き出すためのスパイス。
エピローグでその後のストーカーたちの様子がそれほど描かれていないという点にも注目。
主題を読み解くキーワード「発信」
本作の主題を読み解くキーワードは「発信」。
石居は芸術家として、自分が世に何かを「発信」していることに自覚的である。
しかし、ストーカーの一人・砂原が石居の「発信」を間違って受け取ったことには迷惑だと感じている。
一方、幼なじみのすうすけは、
【モノ作って売ったり、いろんなとこで発信してるじゃないか。笑顔で前向きなこと言って雑誌にでも出たら、超絶孤独な人間は、自分にだけ微笑みかけてくれたと思うんだよ】
と石居を諭す。
すうすけは「発信」が必ずしも発信者の意図通りに伝わらないことを知っている。
一方、果穂は果穂で石居の行動全部から間違ったメッセージを受け取り、気持ちをこじらせていく。
「発信者」である石居と、「受信者」であるストーカーたちは、絶望的に分かりあえない。
石居の変化
そんな中、ついにストーカー二人と石居が対峙する。
怒り狂う石居は、突如窯から自分の作品を取り出し、その美しさに見惚れる。
そして、
【おれは何もしていないのにターゲットにされた被害者じゃない。おれはしすぎるほどしていて、そしてこれからもしていくつもりなのだ。そう、発信を。受け取る人がどうとるかまでは分からないものを、ずっと世間にばらまき続ける(後略)】
石居はようやく自分の「発信」の意味に気づく。
石居はこの瞬間、芸術家として認識を改めたのだ。
石居の成長
エピローグで石居は、青山の老舗ギャラリーで個展を開くことになる。
その下見に来た石居の元に、怪しい美大生がおしかけてくる。
つまみ出そうとする係員を制し、石居は彼の作品を見てあげる。
そして、
【人生の道の途中でおれの作品に目を留めてくれ、好きになったのなら、何かの縁でつながってるんだろう。一方的じゃない。おれが器に込めた声なき声を聞き届けてくれた、この広い世界でつながっている仲間の一人だ。おれも彼らから、十分すぎるものをもらっている。】
と考える。
石居は、ある意味ストーカー的におしかけてきた学生を、自分の「発信」を受け止めてくれた「仲間」だと感じた。
それは、作者の自分ですら聞こえない、理解できない声で作品が何かを訴えていることを認めている証拠。
恐らくストーカー事件がなければ、石居にこのような芸術観は持てなかっただろう。
芸術家と「発信」
本作は、芸術家にとっての「発信」とは何かを問うている。
単純に考えれば、まず創作自体が「発信」であり、その他SNSでのプロモーションや、YOUTUBEチャンネルでの動画配信、メディアへの露出も同様。
問題は、その「発信」に正誤があると考えていること。
自分は確かに「発信」している、その本当の意味はこうで、正しい受け取り方はこうだ、なのに世間は誤解している、マスコミは偏向報道している、あいつは都合よく曲解している……そう考えること自体芸術家としてまだまだだよと綿谷氏は説いているように思える。
なぜなら、優れた芸術作品はそれ自体が作者の意図を越えた発信力を秘めているからだ。
しかも、その内容は作者にすら分からない。
しかし、芸術家はあるとき、作品それ自体が作者の意思と無関係に何かを「発信」しているらしいということに気づく。
作品に”正しい”意図など最初からどこにも存在していなかったと。
作者の自分ですら、作品に手綱をつけ、コントロールすることはできないらしい…
そうして、作者が作品の「発信」を改めて受け入れ、その全責任を受け止める覚悟ができたとき、彼は芸術の秘密の鍵をひとつ開け、芸術家としての階段を一段上ることになる。
エピローグの、どこかひとつ突き抜けたような石居の態度がそれだ。
石居=綿谷?
主人公を安易に作者と結びつけるのは軽率だが、本作はどうしても石居=綿谷であると思わざるをえない。
綿谷ほど作品が作者の意図を越えて「発信」してしまっている作家はいないだろうから。
おそらく彼女はデビュー当時から作品が勝手に「発信」しているのを何度も何度も目の当たりにし、『これって何なんだろう?』と長年観察してきたのだろう。
そうして、到達した境地が、
【人生の道の途中でおれの作品に目を留めてくれ、好きになったのなら、何かの縁でつながってるんだろう。一方的じゃない。おれが器に込めた声なき声を聞き届けてくれた、この広い世界でつながっている仲間の一人だ。おれも彼らから、十分すぎるものをもらっている。】
という心境だろう。
これを綿谷氏自身に置き換えると、
【人生の道の途中で私の作品に目を留めてくれ、好きになったのなら、何かの縁でつながってるんだろう。一方的じゃない。私が小説に込めた声なき声を聞き届けてくれた、この広い世界でつながっている仲間の一人だ。私も彼らから、十分すぎるものをもらっている。】
と解釈できる。
また、
【おれは何もしていないのにターゲットにされた被害者じゃない。おれはしすぎるほどしていて、そしてこれからもしていくつもりなのだ。そう、発信を。受け取る人がどうとるかまでは分からないものを、ずっと世間にばらまき続ける(後略)】
これもやはり綿谷氏自身の宣言であると読み解ける。
本作は、若くしてデビューし、日本中から注目され、様々な困難や理不尽を乗り越えてそれでも書き続けている綿谷りさにしか書けない芸術家論だ。
では全てを受け入れるべきか?
しかし、本作には一つ書かれていない問題がある。
それは、芸術家が「発信」の責任をどこまで受け入れるべきかという線引き。
本作をストレートに読むと、たとえストーカーでもそれは自分の作品が「発信」したメッセージを受け取ってのことだから感謝するべきだと読み解ける。
実際、石居はストーカー二人に感謝し、自分の最高傑作を惜しげもなく与えている。
しかし、現実にはそうもいかないだろう。
ストーカーに感謝して、相手を受け入れたら大変な事になってしまう可能性がある。
作品の「発信」に対する責任は、どこかで線引きする必要があるだろう。
この点について本作は全く触れていない。
あえてそうしたのかどうかは分からないが…
芸術家と「発信」が綿谷氏の新たな主題なら、今後の作品に引き継がれていくことだろう(あるいは既に書かれているのかも)。
蛇足 僕と「発信」
最後に、僕と「発信」について書いておく。
僕は芸術家と呼べるほど何かを創作したり世に認められているわけではないが、「発信」についてはかなり自覚もあり、ひやりとした体験もある。
言ってもいないことや、ニュアンスの違う取り方でブチ切れた人からSNSに怒りのコメントが送られてきたり、ネットで誹謗中傷されたり、それこそ、この作品のように僕からメッセージを受け取ったと勘違いした人からストーカー行為を受けたこともあった。
そういった人たちに、僕は『そんなこと書いてないのに…』とか、『そんなメッセージお前に送ってねーよ』と思っていたのだが、「いなか、の、すとーかー」を読んだ後、『あれもこれも、俺の活動から「発信」された俺自身も知らないメッセージが原因だったんだ…』と納得できるようになった。
そうするとなんだか気持ちがすっと落ち着く感じがした。
受け入れるとか許すとかではなく、出所が自分や自分の作品、文章だったことを理解できたことで、どこか納得できた感じがあった。
今後変なやつに絡まれても、石居のように【おれが器に込めた声なき声を聞き届けてくれた、この広い世界でつながっている仲間の一人】だと思えたらいいなと思う。
まあ、多分無理だが…