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「人それぞれだから」について考えてみた。
「まぁ、人それぞれだからね」
最近、この言葉を聞く事が増えたように感じるのは僕だけではないと思う。
現に、僕もよく使っていた。
この言葉は便利だ。他者と意見が合わなくても衝突せずに、ゆるく繋がっていられる。
そして一見、自分とは相容れない人の事も認める良い言葉のように聞こえるが、果たして本当にそうなのだろうか。
僕は、実際は
「拒絶」に近いような寂しい言葉なのではないかと思う。
「人それぞれだから」
この言葉は、
自分とは意見が合わない人であったり、
理解が出来ない人に対して、
使われる事が多いと思う。
それは、多分相手の為の言葉では無い。
自分の「分からない」という気持ちを落ち着かせるために使っている。そんな気がする。
その場合での「人それぞれだから」は分からない
という事を放っておいて「認めたふり」をしているだけなのだ。
そして「理解」を諦めている行為だと思う。
だから僕は、「人それぞれだから」という言葉は、
どこか寂しく聞こえてしまう。
誤解して欲しくないのは、勿論いい使い方もある。
相手の事を「理解」した上で、人それぞれだからと
思う事は何も悪くないと思う。
僕が今回言いたいのは、
「理解」の前に「人それぞれだから」と切り捨てるのはどうなのか。という事。
理解と共感・賛成・納得
勿論、「共感」出来ないことは仕方がない。
そして、
賛成できないこと・共感できないこと・納得できないことを理解するのには時間と手間がかかる。
めんどくさい。疲れる。
だから、「人それぞれ」という言葉を使って楽をしたいのだ。
だから、共感・賛成し合える人とだけ付き合いたい。
それも分かる。
しかし、賛成・共感し合える人とだけ付き合うようになり、賛成・共感できない人達の事は「まぁ人それぞれだからね」と切り捨てる。
それで果たしていいのだろうか。
少し話は大きくなるが、
共感できないものは理解出来ないというような
「賛成・共感」が「理解」と混同している、このような考え方だと差別・偏見に繋がりかねないのではないかと思っている。
勿論、
「賛成・共感」出来ない事と向き合うのは大変だ。
人と衝突する可能性だって増えるだろう。
しかし、
人と衝突するのを恐れてはいけないと思う。
僕はこれを海外に来て強く実感した。
聞けなかった過去
海外に来てから、日本では中々会えないような人達に会えた。
恋愛対象が同性の男の人。
動物性のものを食べない人達。
女の子同士で付き合ってるカップル
トランスジェンダーの男の子。
そんな人達と話す機会が多かった。
だけど、中々なにも踏み込んだ事は聞けなかった。
聞きたいことはたくさんあったはずなのに。
何か変なことを聞いたりしたらどうしよう。
傷つけてしまうのではないか。
と不安だった。
そして衝突を恐れていた。
だから僕は、
まぁ、「人それぞれだから」と何も聞かずに理解してた。
しかし、これは実際は、理解した「ふり」だった。
と今となっては思う。
恐れずに、対話をすればよかったと後悔したし
ちゃんと「考えて」発言した事なら、たとえ間違っていても許して貰えたんじゃないか。
今ならそう思える。
だから、恐れてはいけない。
最後に
「人それぞれだから」と思う事は、
相手を理解しようという思考が停止している事を
知っておきたい。
そして、共感・納得出来ないからといって、「理解」を疎かにするという事は、差別、偏見に繋がりかねないという事も。
個人的な意見だけど、自分と全く価値観が違う人の事を理解する事は大変だけど楽しいことだと思う。
海外に来て、自分とは考え方や人生への向き合い方みたいなものが違う人と沢山出逢えた。
共感出来ない事も沢山あったけど、「理解」しようとする事で、深い学びを得ることが出来たと思う。
そこできっと「人それぞれだから」と切り捨ててしまっていたら、なにも得るものがなかったはず。
共感することが出来なくても、
「理解」することは出来る。
共感することが出来なくても、
「理解」しなくていい理由にはならない。
「理解」することで、
本当の意味で、相手を尊重する事が出来る。
だから
「人それぞれ」に逃げず、対話を続けることで、
本当の意味で個を尊重し合い、より生きやすい社会になっていくのではないだろうか。
と思った。
だから、
「人それぞれだから」という言葉に頼りすぎないようにしようと思う。