老いは知恵比べ
誰でも初めてその年齢に到達します。中年までは特に気にもかけないことだが、既に60代半ばとなると、やたら同年齢の人の老いが気になるようになってきます。ほんの少し年上でも早くから白髪となり、最近では禿げ方も気になる人、脚が細くなり、お腹が酷く突き出て時々薬を飲んでいる人、階段を降りる際に手すりを持って降りるようになった同年輩などの姿が気になるようになりました。
加齢に伴う体の変化と対処
体型・体重・容姿・身体能力・知的能力などが、加齢とともに変化していきます。その変化をどう受け止めて、どう対処するか、加齢に伴う認識力・対応力が問われます。
健康維持に何が欠けているのか
高学歴で官庁や超一流企業で出世コースのトップを走っていたような人でも、知的能力は高いはずにも拘らず、こと健康ということとなると、50代・60代で脱落し、亡くなる人まで出てきます。健康を維持するのは、なかなか難しいようです。
高学歴な方ほど、仕事も忙しいのかもしれません。健康情報に気が回らない、頭脳は使うが体力は使わない、情報は手にしても対処する時間がない、など挙げればきりはありません。
現代医学への過剰な期待
病気になっても、現代医学ならどんなことでも何とかなるだろうという期待が異常に知識のどこかにあるのかもしれません。報道では、医療・医学・生物学などで何かの発見や発明があると、従来十分な成果が出せなかった病気の治療にあたかも成果が出ることが間近に迫った、直に治せる、と思わせぶりに書き立てる記事を目にしてきました。
かつては、同様に期待しましたが、新たな発見が必ずしも治療や完治に結びつかないことが多く、まして人を治療できるまでの安全の確保に必要となる事柄を円滑にクリアできないことも多いようです。人間が考えるほど単純なことではなく、例えばがん治療においても種々の好結果が報告されても、寛解まではこぎつけても、完治まで行かないこともまだまだ多いようです。
医療任せ、他人任せで、過剰な期待をすると、自分の取組むべきことが行えずに、歩くことさえ、ないがしろになってきます。
からだは縄文人
その一方で、がんにおいても歩くことは、発症リスクを低下させると報告があります。もちろんがんに限らず、多くの生活習慣病に共通する成果です。案外、科学に頼るより、「からだは縄文人」を肝に銘じた方が良いやのではないかと思います。
「歩いている時間はない」という現代人
歩くことを勧めると、たいていの人は「そんな暇人じゃない」とか、「そんな余裕がない」、中には「何とかクスリで治るでしょう」「その内いい治療法が出て来るでしょう」などと暢気なことをいっています。人生は長いようで、案外短くなるかもしれません。
分子生物学では、人間は120歳まで生きる
分子生物学上、人間は120歳まで生きることができるといいます。その割に、衛生面や感染症への対応などが大きく健康長寿に貢献しているにもかかわらず、生活面における工夫が進まず、100歳時代とはいうものの、増えたとはいうもののまだまだ100歳長寿が少ないのはどうしてでしょうか。
生活の選択は、自分でしかできない
100歳を超えて介護を必要としない人は何人いるのでしょうか。現代医学の診療現場でヘルスリテラシーの指導が、十分だと考えているのでしょうか。結局のところ、たとえ歩くことさえ時間を割こうにも、自分の生活環境を自分で見つめ、それに相応しい対処法を自分で考えなければなりません。その点で、あらためて考えて見ると「老いは知恵比べ」といえるのではないでしょうか。
毛細血管の大切さ
健康は資産というものの、健康に120歳まで生きられるとするなら、その一方で若くして突然死やがんを含めて亡くなる人もいます。その病因を見つめ直すことで共通する要因が隠れているように見えます。現代の生活環境は、ますます毛細血管を大切にしない生活になっていることに気づく必要があるのではないでしょうか。