分裂しそうなこころとあたま 人口減少、サーキュラーエコノミー、現代アート
少子高齢社会における高齢者への所得移転
圧倒的に現役世代は割を食っている。物価は上がり続けているのに、給与水準は低いまま。社会保険の実態は「保険」でもなんでもなく、現役世代が得る額面の2割ほどが引き剝がされて、その多くが高齢者に所得移転されている。どれだけ資産があろうとも高齢者というだけで現役世代からの所得移転(=年金の受給)の対象となる。個人資産の過半を高齢者がホールドし、現役世代が自由に使えるお金は減り続けている。
結婚・出産・育児にはお金も時間も体力も必要だ。少子化の原因は「生まない女性に母性本能が足りない」とか「最近の男性は性に淡白だ」といった印象論ではなく、「お金が足りない」とか「キャリアとの両立」といった極めて現実的な問題に起因している。現役世代から高齢世代への無条件所得移転を見直さない限り、少子化は止まらないのではないか。
人口減少は悪いことなのか
現役世代がお金を持っていない。今のままでは人口減少は止まらない。ただし、人口減少そのものは必ずしも悪いことではない。
江戸時代、日本の人口は3000万人程度で安定していた。鎖国していた間、日本列島で生産できる食糧で養えたのが3000万人だとすると、今の日本の人口は過多であるともいえる。もちろん、食糧生産以外の産業で価値を生み、外貨を稼ぎ、海外で生産された食糧やエネルギーによってそれ以上の人口を養っていくという視点も必要だ。しかしながら、自動車産業等で競争力の低下が見込まれる中、化石燃料の価格が長期的に上げトレンドとなることも考えると、むしろ人口が減っていかないと、みんな食っていけないのでは?という状態に近づいている。
改善が必要なのは人口減少そのものではなく、少子高齢の歪な人口ピラミッドのなかでどうやって社会を維持していくか、という制度のほうにある。シルバー人材が無理なく活躍し続けることができ、若年世代が子育てでお金とキャリアに困らない社会環境を整備することが必要だ。
ポスト石油時代の最重要概念、サーキュラーエコノミー
食糧生産にも物流にも、他の経済活動にも必要なのがエネルギーである。農業の現場ではトラクターがガソリンで動いて田畑を耕すし、化学肥料は窒素にエネルギーを投入してつくられる。畜産の環境負荷が高いことはよく知られるようになった。
脱炭素の潮流やEROI(エネルギー収支比・投資効率)の悪化(低下)を考えると、化石燃料にいつまでも頼っていられない。しかしながら、現段階では飛行機は石油でしか飛ばないし、重工業の現場も石油でしか動かない。再エネが生み出す電気ではエネルギー密度が足りず、強力なパワーは得られないのだ。今後、最大限に電化(石油やガスを電気エネルギーに転換すること)と電源の脱炭素化(再エネ化)を進めるためには、農林水産業、製造業、サービス産業、そのすべてにおいて、産業構造そのものの低エネルギー化が避けられないだろう。
これまでの文明は、化石燃料を地中深くから掘り起こし、そのエネルギーを様々な価値に換えることで発展してきた。これからは、地中深くから高密度のエネルギーを取り出すことなく、いま地表にあるものでいかに価値をつくり経済活動を展開していくことができるか、というサーキュラーエコノミー/循環型社会の視点が最重要になるのだと思う。
移住定住政策というゼロサムゲーム
自然の恵みや食糧・エネルギーの生産現場がある地方こそ循環型社会の鍵を握るはずなのだが、いま地方で繰り広げられているのは、人間が勝手に引いた自治体の境界線の内側に人を呼び込み住まわせようとする、いわゆる移住定住政策である。全体の人数は変わらないのにその中で人の数を取り合うという、いわゆるゼロサムゲームだ。ここまで書いてきたことを認識すれば、そんなことをしている場合ではないのは明白である。
もちろん短期的には、子育て政策の充実や時代を捉えた産業政策をとることで、特定の自治体に人口が集まることは考えられる。ただしそれはあくまでも、少子高齢社会における社会構造の変革や、エネルギー危機の時代における産業構造の転換として行われるべきであって、よその自治体よりもたくさんの人が移り住みましたということが目的になってしまってはいけない。移住者数は成果というよりも、ローカルな社会変革によって生じた、ただの結果論として語られるべきだろう。
現代アートはこころとあたまを動かし続けて生きるためにある
突然具体的な話になるが、私はいま地方自治体のアートプロジェクトのスタッフとして働いている。このプロジェクトは自治体の移住定住政策の一環として、地域の魅力をアートによって発信・発掘するために実施されている(ことになっている)。現実的にお金を引っ張ってくるうえで必要なロジックではあるのだが、アートプロジェクトの目的が人口獲得競争のゼロサムゲームに据えられてしまうのはいかがなものだろうか。
バズとヘイトと戦争にまみれた、複雑で生きづらく多様な世の中。現代アートは、そんな時代にあって、こころとあたまを動かし続けて生きるためにあるのではないか。
作品と出会うとき、資本主義リアリズムの現実に縛られる日々から、一時だけでも自分自身を開放することができる。その体験は、パワフルな化石燃料時代の先にあるサーキュラーエコノミーとも相性がいい(というかむしろ、不可欠)なようにも思う。
原子力災害の被災地であるとともに、ふつうの穏やかな山村であるこの地に、様々なアーティストが集い、土地や人とのコミュニケーションを試みる。この取り組みに、本来の意義をあらためて付与し、軽やかに、かつ切実に、楽しんでくれる人を増やしていきたいと思う。
分裂しそうなこころとあたま
少子高齢社会とシルバー民主主義、食糧とエネルギー、ゼロサムゲーム、思考停止に抗うアート。こうした切実な問題意識たちを嘲笑うかのように、他者の尊厳を踏みにじり自己保身に走る人間を目の当たりにし、いかに自分が吹けば飛ぶような小さな存在であるかということを思い知らされている。一方で、他者や他所(よそ)への想像力を絶やさずに表現へ向かうアーティストたちのことばは、声は大きくないけれど、心を動かす何かを持っている。
最後に、最近刺さっているJ-POPソングをいくつか…。