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ようやく、閉じこめられていた家族から離れて
成功したら、お母さんのおかげ。
失敗したら、私のせい。
後者の「失敗したら」というのは、「お母さんの言うとおりにしなかったから」という意味が含まれていますが。
とにかく私の子どもの頃は、なにからなにまでこのような感じでした。
書きながら思い出していると、本当に面倒くさい話だなと思います。
同じ事は、「褒められたら」「叱られたら」でも他でも、全く同じです。
それとは別に、私と母はケンカも日常茶飯事でした。
その中身は、今の私を含む大人からすれば、大したことないことに決まっています。
なにせ、10歳前後の子どもとの間のことです。
私の母は、何をそんなにムキになっていたのでしょう。
一度や二度じゃなくて、しょっちゅう。
これも思い出してみると、実に面倒くさい話だと思います。
もちろん、今の私との間に、こうしたかつてのようなことはありません。
会話などがほぼないのも、理由の一つではありますが。
しかしそこで、何が起きているかというと。
このかつての私の立場を、父が引き継いでいる。
もちろん、父も積極的にではないと思いますが、とにもかくにも。
やはり母は、かつての私と同じように、面倒くさい相手をする人を必要とするらしい。
(ただし父は、子どもの頃の私とは違ってケンカはしない)
私はと言うと、そんな親のやり取りは耳にするだけでも、面倒くさいというか気持ちが悪い。
と、以上はあくまで私の見立てです。
どこの誰が見ても同じ感想を持つはずだと、言うつもりはありません。
しかしそんなことより。
私はようやく、自分の家族というものを客観的に見ることができては、そこから抜き出て離れたところから、検討を加えることができるようになった。
アダルトチルドレンの克服に長らく取り組んでいる私。
今になってようやく言えることですが、私に必要だったのは、このような状態だったと思います。
逆に言えば、やはり私は。
親により、狭い牢屋のような家族に閉じこめられていたことになります。
ずっと。
閉じこめられていた家族から離れて、見えては検討を加えられるようになるのは、自分の家族のことだけではありません。
なんでもそうです。
物事に対する、「家族の見方イコール自分の見方」から。
純然たる「自分の見方」に切り替わります。
すると、気づくことも多い。
まるで違う、と。
親の思考と自分の思考が。
ただし、長々と親のことを交えて書いておきながらですが。
親のことはまあ、いい。
実際問題、自分のことについて考える時以外は、親のことはほとんど頭に浮かんでこなくなっています。
現実的なことでは、自分の仕事や生活とかを考えねばなりません。
関連して、ちょっと冒頭の話と絡めるならば。
仮に失敗したって叱られたって、済んだことは仕方がないでしょう。
私は成功しても認められず、失敗をしたら親の批判が加わることが常だったトラウマにより。
失敗を病的なほどに、恐れるようになりました。
そう。
今思えば、明らかに病的です。
加えれば、成長過程で身についてしまった病的です。
元々そうではなかったのに、後からひどく恐れるようになってしまったんです。
今はその自覚と、恐れるようになる前と同じように、親に関係なく自分自身から考えが生まれる感覚。
その両方があります。
とにかく、そのうち現実のこの家も出て行かなくてはなりませんが。
そのスタート地点に、ようやく立とうとしているところかもしれません。
仕上げを意識して、今日は連投しました。
いつもお付き合いいただき、どうもありがとうございます!