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のび太に変わるものは何か?

おはようございます!

ケミオです。


昨日、「私はのび太だった」と書いたのは。

そのまま自分で考える自己像にも当てはまります。


ただ、アダルトチルドレンの問題を抱え、自分自身がどこにいるかもわからないような間は、もちろん自己像もへったくれもありませんでした。

自分がなければ自己像などあるはずもないので、考えても意味はありません。

自分の抱えていた問題についてはわからなかったものの、自己像云々に意味がないことだけは、わかっていたような。

考えたところで結局、「わからねぇよ」となるだけ。


しかし、今ではわかります。

私の自己像は、のび太でした。

のび太のように何をしてもダメで、時にいじめられる自己像を、私は持ち続けていました。


それがわかるようになったのは、トラウマ処理ができたからに違いありません。

トラウマは子どもの頃の家庭の出来事ですが、私はその記憶の入った箱にはフタをして取り出せないようにした一方で。

当時感じた無力感などは、強烈に体に染みついてしまった。

のび太の元となる記憶はなくても、心も含めた体全体が勝手にのび太になってしまいました。


それでも、そんな自分にただ違和感だけはあったことも確かです。

でも、トラウマの記憶は取り出せないから、その正体も原因もわからない。

当初の私は違和感の苦しさだけを頼りに、トラウマをなんとかしようとした次第でした。


だんだん何が書きたかったんだっけ?状態になってきましたが、まとめると。

トラウマが処理できて初めて、私は過去から続く自己像がわかったことになります。

ただ、今の問題はここから。

のび太に変わるものは何なの?ということです。


しかしそれは、考えて「こうだ!」と決めつけるようなものではないでしょう。

探すのはいいかもしれませんが、あくまで自分の中から湧き上がっては自然と固まっていくようなもののイメージです。

なので、今の私に大切なこれは、パッパと手際よく進んでいくものではないといったところ。


最後に、一応のび太について。

のび太がのび太であることを自分で認識し、かつドラえもんという存在がいて彼?を大切にしながら生きていくならば、それはまるで否定できないと思います。

のび太の一見欠点でしかないと思われるところを否定的な意味で書いたのは、それが私自身であるのは違うだろうというところにおいてだけ、です。

間違っているのはのび太自身ではなく、私がのび太だということ。


私にはドラえもんはいないわけで、いないならいないなりでのび太とは違う私がいることでしょう。

その意味では、のび太というのは現実にいそうで、いるはずのない人間なんだと思ったり(ドラえもんは現実に絶対いない)。

でもそんな人間が展開する話から、面白さがあったり、時に教訓を見いだせたりするのは。

なんともマンガというのは、奥が深いというか…。


のび太が大人になったら…というのを私も目にしたことがありますが。

ドラえもんがいなくなっても、のび太がのび太であるならば、大人ののび太もやっていけるのではないでしょうか。

のび太の親のことはよくわかりませんが、私のような苦しさを抱えることはないんじゃないのかな、とも。


ドラえもんについてはすいません。

もうかなり昔から見ていないので、多分にイメージだけで書きました。


読んでいただいてありがとうございます!

今日も良い一日をお過ごしください!

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