見出し画像

何かを信じる

おはようございます!

ケミオです。


昨日は、とある小都市に行っていました。

言ってしまえば、川越ですが。


駅を出て、歩いて回れるだけの神社と寺社を参拝しただけにはなります。

結構行ったなぁ。

おそらく10くらい。

古くからある街のだけあって、未だ立派な社も相当あります。


暑さは強烈でした。

しかしやはり、参拝ごとにとても心が洗われます。

「神にすがるように」という表現をそのままに、「幸せ」をひたすら念じるような参拝を繰り返しましたが。

「それはお前の心にあるんだ」と、なんだか教えられた気がします。


帰ってからは、心が落ち着かない感じになっていました。

EMDR後の頭のどさくさと、「幸せ」が頭でごちゃごちゃうごめいている感じ。

しかし今朝になれ、不思議なほどの心の安寧を得られている。


ちょっと長居してしまった、印象深いお寺もありました。

私は宗教とは縁のない人間ではありますが。

「どんなときも、ここの〇〇様が見守ってくれている」といった信心は、人の営みにとって無視できないものかもしれないと、初めて思いました。


というかきっと、人にとって信心は欠かせないものだったから、神も仏も太古からあり続けるんだと思います。

それは言わば、人が生きていれば自然に起こるものだと言える。

その自然を無視して、生きているか生きていないかわからないようになっていたのは、むしろ私でした。


宗教が起こす問題も常にあったはずですが、それについてのどうのこうのは言えません。

ただ、ゼロサム思考で信心そのものを悪だと決めつけるのは、間違っていると思います。

なぜなら、繰り返しますが、それが今を生きる人に起こることは、不思議でもなんでもないから。


そうは言っても、特定のどこかの勧誘を受けることがあれば、私は無視しますが(そんな経験は過去にもありました)。

とにかく、「何かを信じる」ことを、自分に照らして考えてみては。

それを自分に許してもいいと思ったこと。

これは、全くもって初めてでした。


読んでいただいてありがとうございます!

今日も良い一日をお過ごしください!

いいなと思ったら応援しよう!