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不思議なことが起きている

こんにちは!

ケミオです。


不思議なことが起きています。

記憶が、どんどんあふれ出てきている。


どこにしまったのかも忘れて、存在すら忘れてしまった記憶たちです。

自分で思い出そうとしても、まず出てこないものと思います。


しばし横になりながら、それらを味わうようなことをしてみます。

すると、その場面場面にいたのは、「確かに自分だった」という感覚にさせられる。

そこから、当時と今の自分がつながっていることもまた、強く実感させられます。


アイデンティティとは、こういうものなのかもしれないと思いました。

生きている感覚が希薄だった自分には、それが明らかに無かったことを、理屈だけでなく体を通して自覚しました。

それが今、すごいことが起きている。

まだ混乱している感じはあるものの、そう強く実感するところです。


つまるところ、私はあまりにも多くのことを忘れていました。

記憶の一つ一つは大したことないことかもしれませんが、一方では生活必需品に例えられるかもしれません。

まとめてゴミに出してしまったら、アイデンティティがなくなってしまった。

それを使って他の人は当たり前にできることを、私はできなくなっていたんだと思います。

必需品が焼却処分されていなかったのが、救いでした。


頭も体も、ちょっときつい状態ではあります。

ただ、少し時間をかけてでも、過去と今の自分のつながりをひたすら実感する。

今はそれしかできないと同時に、私にとって必要なことだと思います。


そして、そんなことが私に起きているからこそだと思います。

当時の親がどうだったかも、ものすごくよく見えてきました。

これまでしてきた考察以上に、確固たる実感を伴った、親の姿です。


結論を言ってしまえば、親にとって私は、ペットとさして変わらなかったのです。

親のしつけ通りにできれば、褒めて可愛がられる。

できなければ、叱られる。

それだけのこと。


でも私は、愛玩動物ではありません。

一人の人間としての意思を持ち始めると、親は途端にお手上げ状態に。

教育的なところや、大人になるにあたっての成長みたいなところは、まるで考えることができない人でした。


そして、今となればやむを得なかったとはいえ、私もそんな親に付き合ってしまいました。

もちろん、なるべく褒められ、可愛がられる存在になろうとして。


しかしそんなことをすれば、これから成長せんとする自分の中では、明らかに矛盾を抱えます。

結局、自分を分裂させて…といったところではないでしょうか。

その過程で、本来は必要だった記憶までも、見えないところに隠してしまった気がしてなりません。


以上は自分にとって大切なことだと考え、整理する意味で記しました。

完全な私語りにお付き合い頂いて、ありがとうございます。


今日もお疲れさまでした!

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