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信義に反して短期の利益を得ても、長くは続かない

強い協調関係にあった相手に急に敵対したり、時にはだましたりして短期的な利益を得ても、長い目でみると失うものの方が大きいと思う話しが歴史にはあります。
それは、戦国時代の甲斐で大きな勢力を誇りながらも、次代で滅びてしまった武田信玄(1521 ~1573年)についてです。

武田信玄は、駿府・遠江(静岡県)の今川家と、関東の後北条家と三国同盟を結び、互いに血縁関係も結んでいました。信玄の嫡男であった武田義信(1538~1567年)も、今川義元の娘を妻としていました。
この三国同盟でお互いに安全保障していたため、武田信玄は安心して信濃(長野県)攻略や、越後(新潟県)の上杉謙信と戦うことができたのです。
また、織田信長や徳川家康の勢力拡大に対し、この三国同盟は両者の東への拡大を抑制したいた面もありました。

しかし、この三国同盟が崩れてしまったきっかけが、武田信玄による今川領への侵攻でした。
今川義元が桶狭間の戦い(1560年)で信長に敗れたのち、義元の嫡男であった今川氏真が後を継ぎました。しかし、氏真は領国の掌握ができず、支配下にあった徳川家康の離反も招きました。
こうしたことから氏真の器量が小さいと把握した信玄は、今川領への侵攻を考えるようになります。

ただし、当時はまだ三国同盟が健在であり、武田家内にも今川と敵対することに反発もありました。特に妻が今川家出身である信玄の嫡男、義信は、信玄の今川と敵対することに反発し、クーデターを計画します。しかし、このクーデターは失敗に終わり、義信は廃嫡のうえ、死去します(切腹説、病死説など)。

義信が亡くなったあとも、表面的には武田家と今川家は友好関係にありました。義信の妻は今川家に戻りますが、血縁関係がなくなっても同盟は継続しましょう、と確認をとっているほどです。

しかし、その直後に信玄は今川領に突然侵攻しました(1568年)。今川領の西にある徳川家康とも共同で侵攻しました。
突然の侵攻に氏真もなすすべがなく、また信玄が周到に裏切り工作をしていたため、すぐに敗退しています。紆余曲折ありながら氏真は関東に亡命し、戦国大名としての今川家は滅亡したのです。
この結果、信玄は駿河を支配することができました。これまで海に面する支配地がなかった武田家としては、これは画期的だったと思います。短期的には大きな利益でした。

しかし、私はこの今川領侵攻が武田家をめぐる状況を流動的、不安定にし、次代の勝頼の時代に滅亡する原因となったのではないかと思います。

まず、嫡男、義信がクーデターを図り、廃嫡したことで、事業承継が不安定なものとなりました。信玄死後、本流ではない勝頼では求心力に課題を残し、武田家内の一体感が低下します。

また、今川家との同盟関係が清算されていない段階で侵攻したことは、武田家の外交上の信用を大きく損なうものでした。これは滅亡に向けて本当に大きかったと思います。
突然の侵攻により、三国同盟の一つであった北条家は猛反発し、武田家と対立します。その後、また再同盟したりしていますが、不安定な関係は続き、最終的には北条家は信長、家康とともに武田家を滅亡しています。

ここでは詳細は割愛しますが、この信玄による今川領侵攻あたりから、武田家をめぐる同盟締結と破棄がめまぐるしく繰り返され、最終的には武田家は孤立し、今川領侵攻から14年後、信玄死後から9年後に武田家は滅亡します。
信義に反して今川領を侵攻して短期的利益を得たものの、そのことで事業承継が不安定になったり、外交的信用が失われて、長期的には滅亡してしまったのです。

そういえば、武田信玄を手本としていた徳川家康は、同盟関係を破棄しなかったことで有名であり、そのことが諸大名の信頼を獲得し、関ケ原の戦いなどで勝利し、天下人になりました。
もしかしたら、この点については信玄を反面教師としていたのかもしれません。

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