【映画1000本観る計画#3】文章を書く人にこそ観て欲しい映画『ライ麦畑の反逆児、ひとりぼっちのサリンジャー』
本作は20世紀のアメリカ文学の傑作『ライ麦畑でつかまえて』の作者である、J.D.サリンジャーの半生を描いた映画である。
『ライ麦畑でつかまえて』を読んだことがあるかないか、またサリンジャーの作品に触れたことがあるかないか、でも見方が変わりそうな映画でもある。
作品を読んでいれば映画内のシーンが「あの小説のあの場面の元がこれなんだな」とわかったりもするが、サリンジャーの作品を読んでいなくても楽しめる映画でもあるし、何より本作がサリンジャー作品を読むきっかけになればサリンジャー好きな僕としては幸いである。
予告編
全編はこちらから↓(プライムビデオ)
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07TYP5W1L/ref=atv_dp_share_cu_r
映画のあらすじと感想
あらすじ
作家になりたいという野心を抱えた青年、J.D.サリンジャーは、商売人として成功した父親の反対を押し切って作家を目指すことになる。よい師匠となる大学の教授との出会いもあり、よりよい文章を書いていき少しずつ雑誌に掲載され始めた頃、第二次世界大戦の兵士として戦争を直に経験することになり、サリンジャーの精神は壊れてしまう……、というお話。
サリンジャーの作品を読むとき、頭に浮かぶ彼の姿はいつだって孤独だった。
文章を読むだけでなぜそんなことがわかるのか、僕自身にもわからないのだけれど、孤独でないサリンジャーの姿が想像されることはただの一度もなかった。
書くという行為自体が孤独な試みではあるのだけれど、サリンジャーの文章から感じる孤独感は何かただならぬ孤独……、何か不可侵な領域にある孤独といった印象を受けた。
そして映画を観て、サリンジャーが僕の想像を超えて孤独な状況にあったことを知った。また『ライ麦畑でつかまえて』が生まれた経緯なんてものをわざわざ考えたこともなかったけれど、あの作品がサリンジャーにとっては「戦争を生き抜くために必要なもの」だったことを知ると、今一度読みたくなる。
『ライ麦畑でつかまえて』は、僕自身累計5回は読んでいる。2回英語で読み、日本語では野崎孝訳で2回、村上春樹訳で1回読んだ。僕は基本的に同じ本を2回以上読まないタイプの人間だが、この『ライ麦畑でつかまえて』と太宰治の『人間失格』だけは繰り返し読んできている。
その理由が、自分でもわからない。
何がここまで自分を惹きつけるのか……。
余談だが、僕はあるとき、カナダにあるインド系の寺院でサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいた。目の前に座った男が少し怒鳴るように、
「俺はその本が大嫌いなんだ! 俺の目の前でそれを読むな!」
と言ってきたことがある。
僕は少し驚きつつも、
「なぜ、この本が嫌いなんだ?」
と尋ねると、
「俺は5回もその本を読んだが、嫌いで嫌いで仕方がないんだ」
とその男は答えた。
「5回も読むなんて、本当は好きなんじゃないの?」
と思ったのでそう伝えると、男はキョトンとした顔をして、
「あれ? まあ、とにかく嫌いなんだ!」
と怒りのやり場を失っているように思えてならなかった。
そんなエピソードを思い出したが、僕が言いたいのは『ライ麦畑でつかまえて』には、人を惹きつける得体の知れない魅力があるということだ。
果たしてその得体の知れない魅力が何なのか、僕の記憶の中の『ライ麦畑でつかまえて』を思い返しながら考えてみると、ふと一つ、思い当たるところがあった。
成長するにつれて、人は不安定さや未熟さを欠いていく。良い意味で言えば経験を積み、安定していくものだ。
しかしそれは同時に、不安定な時や未熟な時にしか経験し得ない不安な気持ちを、純粋な気持ちを忘れていくことでもある。
そして『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン・コールフィールドはどこか不安定なキャラクターでありながら、美しく純粋で無垢な一面も持っている。
ホールデン・コールフィールドという「つり橋を命綱なしで渡るような」キャラクターが、忘れていた「不安な気持ちや純粋な気持ちを」思い起こさせてくれるから、かくも人を惹きつけるのではないだろうか。
最後に
映画の感想というよりも、『ライ麦畑でつかまえて』の話ばかりになってしまったが、サリンジャーが戦争で狂いながらも綴った小説だと知れば、つい小説への思いが先行してしまう気持ちをご理解いただけたらと思う。
映画を観てから小説を読むのも、小説を読んでから映画を読んでも楽しめるので、もし興味があればどちらも味わっていただけたら幸いである。
個人的には野崎さんの訳が好きです↑
ホールデン・コールフィールドのその後が書かれた話が入っている作品↓