喫茶店の人間ドラマに温まる
こんばんは、今日もエッセイご覧いただきありがとうございます。
ぜひまったり時間にじっくり読んでいただけたらと思います。
今日の食日記
喫茶店というのは飾り一つない人間模様が描かれる場所だと思う。
というか、飾りたくない人が集っているのだと、思う。
自分がサラリーマンになったと仮定して、同僚とランチに来るか?と正直思ってしまうのだが、お昼時の喫茶店は、むしろサラリーマンで成り立っていると言っても過言ではない。
自分なら、せっかくのランチという場所を喫茶店に選んでは、飾りたくないのに飾らなければいけないことが悔しくて、後ろめたい気持ちにさえなってしまうだろうと思うのだ。
僕は飾りたくない。喫茶店に居る時、その全ての人にありのままをさらけ出したいし、さらけ出してほしいと思う。
どちらもたいして気にしてない自分勝手気ままな空間が好きで、鑑賞するのはナンセンス。
でも、自分は自分だ!と強めに誇示し、自信を持って歩ける場所であってほしいのだ。
地方に足を伸ばそうと、その辺の喫茶店に行こうと、いつもの変わらない日常が流れていてほしい。
「昨日のあのテレビ見たー?あんなの嘘よね〜」「帰ったら夕ご飯なにを作ろうかしら。面倒くさい」
そんな話は、聞いていなくても右から左に流れてくる。どうでもいいから、ずっといて欲しいのだ。自分だってあの人にとってはどうでもいい。
その関係地上で喫茶店で会いたい。
どこへ行こうと、喫茶店の食体験は等しく味わえる(と思っている)。
たとえ大阪だろうと、関西のおばちゃんだろうと。
今日のお店
妙に惹かれてしまった、昔はもっとハイカラだったのであろう名残に。
リスボン、リボンのようにピンクがキュートで、圧倒的な古さがとても良い。
生ぬるい温度と、たばこで曇った湿度がもう伝わってくる。
ここはリスボン珈琲店。
大阪の地理には詳しくないが、いわゆる大都会、仕事の街の懐に構える、軽食の場と考えて良いだろう。
誰でも入れるが、入る人は自分で選んで来るだろう味が染み付いて、来るものを震わせる。
おはようございます。と潜り込んだ僕は、明らかに旅行客だったに違いない。
若僧が、タバコも吸わなけりゃ荷物が多いし、関西弁とは無縁な喋り方だ。
ぼやっと温もりが立ち込めるその景色には、口々に聞こえるおばさんたちの昨日の晩御飯の話しと、サラリーマンのこども自慢話しが宙に浮く。
その一言一言が、漫画の吹き出しのようにそこに手に取るようにある。
古めかしいレースのカーテンも、ぼんやりと景色を変える。
外の景色なんか身もしない、だって我々は自由なんだから。話だって聞く気もないし、ゆっくりありのままで居させてくれよ!って誰もが心にそんなつっかえをはらんでいる気がして、清々しく思えてくる(いいぞ。このままここにいたい。自分らしくありのままで)。
平日のお昼が進むのも、僕にとっては時間の感覚を超越してしまっている。ここにいていいのだと思えて、ありのままで居られる。
目の前のおばさん達が、2個目の信号を右にどうとかこうとか紙に書いてはアナログ式に教え合っている。Googleマップという選択肢はないらしい(聞き耳を立てつつ、危うく自世界が壊れるのを防ぐ)。
おばさんはマスクを店内に忘れ、向かいのOLさんが気前よく駆け出した。映画のワンシーン、物語が動くそれのようだ。
相変わらずマイペース、混雑してきたお昼時を無視しながら、ハムエッグトーストを頼んだ(ともちろんホットコーヒー)。
ハムエッグの値段が一緒なのは、気になるが、バターの旨味とシンプルなハムエッグがホッとする。
謎に切り分けられているのは、それだけの親切に違いない。コーヒーとつまみを合わせるように、啜っては一欠片を繰り返していた。
店内の雑踏はどっちでも良い。
人が織りなすそれぞれの人間模様がなんとありのままで、生きているのか。
一つ一つがあるがまま、それが喫茶店のこの空間。
だから、僕もお昼時に陣取った4人席を譲らない、とぼけ顔を作りながら、ひたすらに読書をした。
周りは変わらず焦っていた。
美味しいひと時に、ごちそうさまでした。
では、また次回。
今日のお店:リスボン珈琲(大阪市中央区道修町 淀屋橋)
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