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福沢諭吉「文明教育論」~智恵の文明時代の教育のあり方

1889年に時事新報に掲載された社説です。
そこそこ長いので忙しい人向けの本当の要約を①で、本来の文章に近い形で現代語訳していったのが②になります。

① 忙しい人向けの要約

現代の文明は智恵の文明である。
もちろん道徳も人として大切だが、道徳は自然に身に付く者なのに対して智恵は学ばなければ身に付かない。
だから教育が必要で、学校もそのためにある。学校は物事すべてを教えることは出来ない、物事を見究める能力を育てることが出来る。
学校の目的は教育ではなく、発育といった方が正しい。天性の能力を育てるのが学校の役割である。
能力の発達には生まれながらの限界があるが、才能豊かな人物であっても様々な能力をバランスよく育てるのが教育の本来のあるべき姿である。

② 原文に近い現代語要約

現代の文明は智恵の文明であり、智恵が無ければ何事も出来ず、智恵があれば何事も出来るだろう。しかれども、世間で智徳の二字で熟語として使われ、智恵と言えば徳もついてくると考えられている。

 西洋の文明は智徳の両者より成り立つものであるから、智恵を進歩させるには徳義もまた進歩させなければならないといい、とある学者はしきりに道徳の教えを広めて西洋の文明に到達しようとしている。もとより智徳の両者は人間に欠かせないもので、智徳があり道徳心がない者は獣と同じである。また、徳義のみを修めて知恵がないものは石の地蔵と同じでこれもまた人ではない。
 両者ともに欠くことが出来ないものだが、現代の文明は道徳の文明ではない。昔の道徳も今日の道徳も分量でいえば増減はないはずだが、昔の書物に載っていることを正しいとすれば、道徳の量は昔の方が多く、末法の現代になるまでにその量は減少しているが、一方で文明の発展度合いを見てみると昔は低く現代は高いと言わざるえをえない。これに対して智恵の分量は、智識が少ない時は文明の度合いは低く、智識が多い時は文明の度合いが高い。 

 そうであるならば、現代の文明が道徳の文明ではなく智恵の文明であることは議論の余地はない。道徳は人に教わらずとも、人に生まれながら備わっており自然に生まれるものだが、智恵はそうではなく、「人学ばされ智なし。」

 社会に教育が必要なのはこれが理由であり、学校を作る主旨も智識を教え、智恵を育てるためにある。しかし、一概に教育といってもその意味は非常に広くて理解しがたいために起きな誤解をうむこともある。そもそも人間が関わることや天地万物は驚くほど多く、これを全て理解はできない。物の名前でさえ、全て知る者はいないのだから、ましてその物の性質まで知る者はいない。

 衛生・生活・社会での交際方法などなど、あらゆることを学校における数年の課程で教えることは出来ないし、学ぶべきでもない。また、その一部でも完璧に教えようとすると、その人の天資を損ない「敢為の精神」(あえて為す精神/困難に屈せずやり通す精神)をも弱めてしまい、結局世の中に愚人を1人増やすだけである。そうであるならば、世の中の繁多な事物を教えることもできない学校は世に不要であるかというと決してそうではない。

もちろん直接事物を教えることは難しいことだが、事物の理(ことわり)を見究めてこれに対処する能力を「発育」することはできる。「すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。」 学校の本来の目的は教育ではなく能力の発育にあることを基準として、日本の学校教育をみると日本の学校教育の仕組みは全くこの目的とは違っていると言わざるを得ない。

 現在の学校の仕組みの多くは文字を教えるをもって目的としているようなものだ。もちろん智能を発育するには文字を知らなければならない。だが、現在の教育では文字を教えることのみに偏っている。子供が難しい字を読み書き出来ると、世間は神童などと言って褒め、教師も心の中では無駄なことだと思いつつも、世間の目を気にして、生徒の根気が続くまで取り組ませ、他の能力を発育する時間もないまま学校を卒業していく。これでは社会に無用な人物を増やしただけである。
 本来「人心」(人の精神かなぁ)を発育する原理において、人の能力は1つではなく、記憶力、推理力、想像力などがあり、それぞれが固有の役目を果たし、互いの領分を犯さず、バランスを保っている状態を、完全の人心という。

 しかれども個人個人の能力の発育には生まれながらの限界があり、個人差がある。才能が豊かなものであっても、その能力をバランスよく発育し、一つに偏らないようにするのが教育の本旨である。特定の能力だけ発育させてしまうと、他の能力は衰えていってしまう。
 文字を教えることは決して有害ではないが、これだけに偏って教育の主目的とすると、人心のバランスを失いいたずらに未熟なものを増やす恐れがあり、慎むべきである。

考えたこと

① 学校の役割

 現代において学校は多くの教育的役割を担っている。だが、学校の本分は福沢のいう「智恵」の教育にある。部活から家庭内のことまで現代の学校は背負いこみすぎている。少なくとも道徳教育の根本は家庭であり、学校は勉学を習うところであるという意識を持ってほしいものである。
 では学校で育つ「智恵」とは何か?福沢が言うように学校で自然界、人間社会のことを全て教えることは出来ない。学校は物事の本質的を理解する科学的な精神を身に付ける場である。それが実学の精神だ。それを分からず「歴史とか数学を教えたって実際の社会では役に立たない」とか「大学で会社で即戦力となるような人材を育成しろ」なんて言う人がいるのである。

② なんでもかんでも教えるな

 教師は教えるのが大好きだ。だが、教えすぎはその子の主体性、福沢の言うところの「敢為の精神」を損なうことになる。これは教師は非常に気を付けなければならない。なにせ教師って、漢字の通り教えることを職業としているから、たくさん教えてあげることが正しいことだと無意識に思いがちだからだ。特に若い先生はそうだ。私も初任校でベテランの先生から「教えない」ことが大切なんだということを教わった。
 教師は適度に種を蒔いて、生徒の好奇心を刺激したり、生徒が主体的に学び始めることを待つことも大切だ。そして、そのタイミングを逃さず、さらに教えるのではなく、背中を押してあげることの方が大切だと思う。

③ バランスよく能力を育てることの大切さ

 どのような才能の持ち主でもバランスよく能力を発達させることが教育の役目だと福沢は言う。これを読んで私の祖母を思い出した。私の祖母はピアノ教育においてそこそこ有名な人物だったのだが、「ピアノだけ練習しても、よい音楽は奏でられません」とよく言っていたそうだ。ピアノは人間を高めるために学ぶのであり、ピアノの技術だけでなく人間性を素晴らしいと言われるようなピアニストになってもらいたかったそうだ。
 学校の勉強も知識を身に付けることだけが目的でなく、ましてや成績とか受験のための勉強であってはならない。様々な学問に取り組むことで人格を陶冶することに学校の意義がある。言うは易しだが、そのことが生徒に伝わるような教員となりたいものだ。


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