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ゼロ戦「無敵神話」の光と影 ④ 今も生きる先の大戦の教訓

1 繰り返された海軍陸攻隊の惨劇

 海軍機に係る燃料タンクの防弾・防火の問題は、昭和12年8月の日華事変にまで遡る。渡洋爆撃の際、最新鋭の96陸攻が、中国軍のホークⅢ戦闘機の一撃によって簡単に火を噴き、たった3日間で38機中12機を損失、65名が戦死という帝国海軍航空隊創設以来の甚大な被害が出たことに端を発する。燃料タンクに7.7mm 弾数発が直撃しただけで、瞬く間に6~8名の搭乗員とともに、大型機が失われる恐ろしい戦闘の現実であった。一説には、2門のうち1門を12.7mmに換装していたとされる。翌9月第一回海軍技術会議では、空技廠 が、「燃料タンク(の外側)に防弾鋼板と8mm(以上)のゴム板を取付け応急的に防御性を高める(ことで7.7mm弾なら連続3発受けても火災は生じない。)」と提案したが、機体重量が300kg増加、爆弾搭載量が720kgから500kgに、若しくは航続距離(燃料約380リットル)が減るとの反対論が噴出したため、「更に重量増加小で済む方法を研究する」と事実上の不採用を決定、極めて重大な問題を先送りした。 そればかりか、この後も僅か60kgの炭酸ガス消火装置を搭載する案さえも拒絶した。同9月96陸攻の後継機である三菱一式陸上攻撃機(「1式陸攻」。14年9月試作機完成、16年4月制式採用)の開発に際し、計画要求書に、「防弾を考慮すること」の一項が付け加えられたことは、事態の深刻さを受け止めた表れであった。しかし、航続距離に重点が置かれたため、防弾装備は再び見送られ、かくして陸攻の惨劇が運命づけられてしまった。

三菱1式陸攻

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