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エッセイとは
小説でも論文でもない。
童話でも詩歌でもない。
好き勝手な文章を書いてはnoteに投稿している。
あれをして、これをした。
こんなところへ行った。
あれを食べた。
という日記風なもの。
また、無責任な持論を展開しては、臆面もなく公開している。
#エッセイとして。
エッセイはどんな雑文も受け入れてくれる度量の大きさを持っている。
それだけに定義が曖昧である。
どんな文章を書いても、書いた本人が「エッセイです」と強弁すれば、咎められることもない。
酒井順子 著
『日本エッセイ小史 人はなぜエッセイを書くのか』を読んだ。
かわいい装丁に惹かれて手に取り、
次に、帯に目が釘付けになった。
そして笑った。
「エッセイとは自慢話のことである」井上ひさし
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我が国の古典的随筆の最高峰は『枕草子』『徒然草』『方丈記』といわれている。
試験前には、現代語訳のみを丸暗記するという姑息な手段も用いていた学生時代。
苦い記憶である。
それでも、『徒然草』『方丈記』の序文ぐらいは暗記していた。
さて、本書では、「エッセイとは何か」という、著名人による定義のようなものが紹介されていて非常に興味深かった。
まず、著者はこのように述べています。
誰にでも書くことができるエッセイは、語弊を恐れずに言うならば、文芸世界における雑草のような存在です。常に何かを思っているのが人間であり、それを文章化すれば、エッセイと化す。刈っても刈っても生えてくるものであるからこそ、エッセイはたくましく生き続けてきました。
更に、「どのようなエッセイが書かれたか」を見ることは、時代そのものを見ることにもなる……、と続けます。
『枕草子』や『土佐日記』あたりから始まった我が国の随筆が、やがてエッセイ、コラムへと発展していく過程が、時代や社会の変化と共に語られます。
講談社エッセイ賞(1985〜2018年)スタート時の選考委員でもあった井上ひさしは、1992年の選評において、「気軽に読めて、それでいてはっとさせられる見方や蘊蓄に富んだものがエッセイである」と述べています。
随筆がオシャレになり、エッセイと呼ばれるきっかけとなった作品は、伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)だったのだとか。
戦争の痛手も癒えて、豊かになった社会で、若者たちは「カッコよさ」を求めるようになっていきます。
そんな新しい価値観がエッセイ誕生の背景にあるといいます。
その後のエッセイの変遷を本書で辿ることができます。
さまざまなジャンルの、キラ星の如く輝くエッセイストたち。
わたしの敬愛する、向田邦子、東海林さだお、林真理子、沢木耕太郎らの名前も当然、出てきます。
また、なるほどなと感心したのは、エッセイは「へーえ!」と「あるある」系に二分されるという著者による分類法です。
特別/特殊な体験や知識をベースとして書かれたエッセイが「へーえ!」系となりましょう。
一方の「あるある」系エッセイは、誰もが経験している一般的な事象の中から、一般的すぎて目にもとまらないことや、言葉にはされていなかった感情を抽出し、
「こういうことって……、あるある
」
という納得感を読者にもたらします。
特異な経験をしているわけでもない一般人のわたしは、せめて後者の「あるある」系を念頭において、日常茶飯事を書いていくしかありません。
独特のものの見方や表現を少しでも磨いていけたら……と思います。
冒頭にも紹介しましたが、井上ひさしは「エッセイとは自慢話のことである」という名言を残しています。
それに関して、著者も以下のように書いています。
自分はこんな体験をした。こんなことを考えている……といった記述は全て自慢であり、それらの自慢に様々な工夫を施し、臭みを抜いて読者に提供するのがエッセイなのだ、と。
この定義に、私ははっとしました。自分もまた、「こんな視点って、ちょっと気が利いてますでしょう」とか「こんなに色々と調べてみたのですよ」といったアピールを込めつつも、それがばれないように日々、文章を書いているのだから。
たまに「ちょっといいこと」を書けば「私、実は善良なところもあるんです」というアピールになるし、露悪的に書けば「自分の悪いところも隠さずさらけ出すことができます」ということに。中心にであれ端にであれ、生身の「自分」を存在させないと成立しないエッセイという芸は、必ず自身のアピール行為となる宿命を負っています。
そういう見方をすれば、ありとあらゆる角度からどこをどう切り取っても、エッセイ=自慢話となるわけで。
エッセイが自慢話だとするならば、
こんな回りくどい方法で、なけなしの自慢話を披露する自分を許しつつ、今日もまた飽きもせずにエッセイという名の雑文を綴るのでありました。
とnoteには書いておこう。