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「介護時間」の光景㉛「50年」と「雨どい」。10.21.

 今回も昔の話で、申し訳ないのですが、前半は、2001年10月21日の話です。(後半に、2020年10月21日のことを書いています)。

 先日も、同じ年のことを書いていますが(リンクあり)、今回は、その1週間後くらいの話です。

  母親の介護を始めて、自分も心臓発作を起こしたこともあり、仕事をやめ、義母の介護も始まりつつあり、母親に療養のための病院に入ってもらいました。その転院から1年がたった頃です。

    毎日のように病院に通っていました(リンクあり)。
 家から、電車を乗り継ぎ、最寄りの駅からバスに乗り、片道2時間をかけて、病院に通っていました。

 この日は、病院に行く前に早起きをして、社会人のアメリカンフットボールの試合を見に行きました。以前は、取材で観戦していたのですが、この時は、仕事をやめていたので、(リンクあり)観客として見て、それから、母親の病院へ向かいました。

 その時のことです。


50年

 誰とも一言もしゃべる事なくアメリカンフットボールの試合を見た。すごく久しぶりのせいか、ただ見るだけなのに妙に緊張して、その感じをひきずったまま駅へのバスに乗った。

 シルバーパスで乗ったらしい2人の男性が後ろの席に座り、ずっと話している。どうやら一人は60歳と少し。もう一人は70代のようだ。年上の方の男性が、さっきから話をしている。中学、高校の頃らしいが今とは微妙に学制が違うから分かりにくところもあるけれど、かなり詳しく話しているのが聞こえてくる。

「……に行くはずだったけど、お金がなくて行けなくて、通信で…」。 

 もう50年も前の事になるはずだと思う。もしくはもっと前の事かもしれないけれど、それでも出来なかった事を、ずっと憶えている。それも、月並みな言い方かもしれないけれど、昨日の事のように話しているのは、分かる。
                                      「こう見えても、苦労しているんだよ」。

 ただ短い時間しか聞いてないのに、その人の人生の50年くらいのことを、本当に聞いた気がしたのは、その話し方に気持ちが、かなり濃くこめられていたせいかもしれない。細かく話しているのは、2〜3行で片付けられたくないという気持ちなのだろう。そして学校に関する話がずいぶんと多かったようだ。そうしているうちに駅に着いた。これから母の病院へ行く。

                        (2001年10月21日)

雨どい

 ホームはコンクリートの厚い板。そこに雨どいが刺さるように、くっついている。そして、板を突き抜けるように雨どいは続いていて、ホーム下にじゃりがあって、そこに丸いコンクリートの板があって、その真ん中に刺さるように雨どいが続いている。

 そこに、水が流れていくのだろう。その造形が、ちょっとかっこいい。ホーム下の空間がシャープに見える。

                        (2001年10月21日)


 その日のメモも残っています。

試合を見に行って、その後、病院へ行く。
 午後4時35分に病院に着く。

 母は落ち着いていた。
 病室のテレビで、イチローが出ている番組を一緒に見てから、少し病棟内を歩く。

 小さなテーブルの上に、入れ歯入れとお手拭きと、お茶を置いた。

 真ん中にあったら、「これだと、ご飯がきたら、困るから」と右端に寄せていた。こぼれないように、ちょっとフォローもするけれど、その声と、動き方が、すごく神経質で、いやな予感がする。

 「Aさんは、お見舞いに行きたいみたいだけど、たしなめられていたみたい。
 インドネシアに行ったんだから、インドネシア語しゃべれる人、いるんじゃないの」。

 少し内容は分かりにくいが、このAさんの話題は、最近、よく出ている。

 メモに俳句が書いてある。
 おにいさんが、警察官だったのよ、という俳句にはなっていないけれど、俳句として書いているようだった。

 午後5時にトイレへ。
 そのあとに、食事。

 最初に、ミニプリンのフタをすぐにあけて、「最初に開けておかないと」と、やや神経質に言ったり、35分間で、食事が終わり、入れ歯をはずしたあと、「気になるのよ、残りのポリグリップが」と分かるようで分からないことを何度も言うので、それに対応したのだけど、その神経質な感じは、ちょっとこわい。

それから、またすぐにトイレへ。

「秋の月は暮れるのが早いわね。
 こけらおとしね」。

 こういうことの間違いだけはしないことに、少し感心する。

 外で何か大きい音がすると思ったら、花火だった。
 病院のスタッフに教えてもらって、歩いて、病棟の窓から、母と一緒に、最後の一発だけ見えた。
 結構近い。
 そばの大学の文化祭なのかな。

 午後7時に病院を出る。
 虫の声もずいぶんと弱くなった。

 そういえば、私が病院に来る時に、「4階の窓から、Cさんと一緒に手をふったのに、気がつかないんだもの」と、母に言われたことを思い出して、振り返って、見上げても、もちろん、今は誰もいない。

 今日も花火のことを教えてもらった時にも、母は、他の患者さんにも声をかけていて、ここも一つの社会なんだ、と思った』。

それから、19年がたちました。
今日は、2020年10月21日です。

 去年の今頃、大きな台風がやってきました。
 家の近くの多摩川は、これまでにないほど大雨で増量し、避難所へ向かう人もいたらしいのですが、幸いなことに、ぎりぎりで決壊は免れました。

 そのあと、しばらくたって、河川敷に散歩に行った時、普段は野球やサッカーの練習で使われているような場所だったのですが、ここは下流のせいもあって、流木や土砂など、本当にいろいろなものが流されて、打ち上げられるような状況で、これだけ、形が変わるような姿は、この街に20年以上住んでいますが、初めてのことでした。

 運動部の活動もできないくらいの荒れ方で、さらに少したったら、重機が導入され、工事のように、土砂や流木などを集め、撤去したりして、そのあとに、ようやく全面的に、野球部の練習が再開したのは、たぶん一ヶ月くらいあとだったと思います。

 川のそばの大きな樹木の幹に、流れてきた枝や、つるのようなものが巻きついて、それだけで、台風の凄さが、そこに残っているようでした。


 それから1年がたち、今日は天気もよかったので、最近、ちゃんと見ていないので、どうなっているのかを、見に行きました。

 河川敷のグランドは、午後2時過ぎのせいか、どの運動部も使用していないので、親子連れがたくさんいて、小さな子供たちが広い場所で走り回ったり、何かを投げたり、声も聞こえますが、その広さの中では、すごくこじんまりとした活動に見えました。

 その姿を横に見ながら、さらに、川の方へ歩きます。

 土手の上の道路から見た時とは印象が変わって、ほんの数十メートル違うだけでも、急に緑や自然とかが濃くなってきて、川のそばの大きな木まで来たら、まだ台風のあとは残っていました。巻きついたものの色が変わっていたり、枯れていたり、もしかしたら少しその全体量が減ったのかもしれませんが、それは、おおげさに言えば、災害の痕跡でした。

 まだ、こんなに変わらないことに、そして、普段は視界の中に写っていたにも関わらず、もう見えていなかったことに、自分でも少し驚きがありました。

 写真を撮って、川をながめ、その流れは、近くで見ると、それだけでコントロールできない自然の気配が、ちょっと漂うのですが、引き返して歩いていくと、子供達が、何かを一生懸命していて、まだ動きは全然止まっていませんでした。

 桜並木を通る時、足元に紅葉した葉っぱが落ちていました。
 当たり前ですけど、桜の葉も秋が深まってくれば、赤くなることを確認できたような気がしました。



(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。クリックして読んでいただければ、ありがたく思います)。

「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」⑦自分がコントロールできることをする。

家族介護者の気持ち④「介護者自身の病気・介護うつ」

「介護の言葉」

介護books④「家族介護者の気持ちが分からなくて、悩んでいる支援者へ(差し出がましいですが)おススメしたい6冊」

介護離職して、介護をしながら、臨床心理士になった理由


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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
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