『「介護時間」の光景』(172)。「声」。9.4.
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年9月4日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年9月4日」のことです。終盤に、今日「2023年9月4日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2001年9月4日
『午後2時30分に、自分の心臓の病気を診てもらうために病院に行く。
心電図も異常はなかった。
それでも、医師は少し注意事項を話す。
夜中に発作が多いんですよ。自律神経が変わるので……。
今日は、診察に見習い看護師が二人もいる。そのためか、珍しく聴診器を胸に当ててくれた。
ただ、あれだけの発作があったのに、気のせいのように思われていて、なんだか、少し嫌にもなる。
それでも、次は、母の病院に向かって、午後3時30分頃には着いた。
病室に着いたら、母は、ベッドに横になろうとしていた。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、といっていたけれど、なんだか、ちょっと疲れているようにも、見える。
午後4時すぎにトイレに行った。すぐに戻ってくる。
午後4時30分くらいに、またトイレに行く。
ぶどうジュースを飲んだ。
そのあと、10分くらいで、またトイレに行く。
今日は、体を動かす時間に、みんなで盆踊りをしたそうだ。
30分で3回くらいトイレに行っていた。
そのあとに、郵便局の現況届というのがあって、それを書いてもらって、ほっとした。自分の名前も住所も書けたので、良かったと思う。
午後5時過ぎに、またトイレに行く。もう4回目だった。でも、戻ってくるのは早い。
午後5時30分に、またトイレへ行く。
トイレの回数は多いままだけど、異常な感じは少なくなってきた。
食事は、ものすごくゆっくりかんでいる。
「よくかんでる」と本人は言うのだけど、時々、止まっているのかと思うくらいの速度だった。
それでも、食事はほぼ全部食べて、終わったのが午後6時20分。
もう、周囲には誰もいない。
食器を運ぶ大きなワゴンも、もうない。
少し不安だったのは、食事とトイレに、まず異常が現れるからだった。
食事が終わって、母は、すぐにトイレに行ってしまったけれど、食事がすごくゆっくりだったせいもあって、その間に、私は久しぶりにちょっと眠ってしまった瞬間があった。
食後のトイレに行ってから、時間が経って、気がついたら15分が過ぎていたので、呼びに行ったら、普通に戻ってきて、ちょっとホッとした。
午後7時に病院を出た』。
声
午後6時くらいになると、それまでのセミの鳴き声から、秋の虫の声に一斉に切り替わるようだ。少しずつではなく、急に。
(2001年9月4日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2023年9月4日
9月に入っても暑い日が続いていて、気温が高いままで、だけど、昨日の夜から突然のように雨が降り始めた。
その雨は続いて、今日起きても、やんでいなかった。
洗濯物は溜まっているのに、洗濯はできない、と思っていた。
妻が天気予報を見てくれて、昼前には雨がやんできて、曇りになって、これからも曇りだから、ということで、洗濯は始めることにした。
柿の実は、いつの間にか大きくなってきている。
15000人
本来ならば、5類移行後、さまざまな感染対策などの緩和があったとしても、感染者数が増えているのだから、これまでのように、少なくとも感染者の数は発表すべきだと思うのは、そのことによって、感染予防を呼びかけるよりも、より強い説得力を持つと想像できるからだ。
でも、こうしたことは、今もほとんどニュースにはなっていない。
だけど、都内の感染者数が15000人を超えていると推定されるのであれば、それを元にして、それにふさわしい対応をした方がいい、と思う。
少なくとも、それだけ感染者が増えたのであれば、感染した場合に、誰でも素早く適切な治療を受けられる体制だけは整えてほしい。
それは、今は大きな声で言えなくなっているとしても、それがニュースにならなくなったとしても、重症化リスクのある家族がいる人間であれば、そういう願いを持ち続けているのは自然なことだと思う。介護をしている方達も、そう思っているのではないだろうか。
こうした事は、とても小さな声にすぎないけれど、できる限り、繰り返しになっても伝え続けたい、と思っている。
テレビドラマ
今、映画が始まったりするので、去年のテレビドラマの再放送をしている。
それは、特に妻が好きで、内容も知っているはずだけど、録画して、また熱心に見ている。
このドラマは、明らかに次があるように終わったものの、その続きを放送しないまま時間は過ぎて、映画化も、その前回のドラマの最後から続くわけではない。それでも、スペシャルドラマもあるので、さらに妻は楽しみにしている。
こんなふうに穏やかに毎日を送るためには、まだ特効薬もなく、医療体制も整っていないようだし、妻はぜん息の持病もあるので、今もコロナ感染をしないことが重要になる。
だけど、そのために外出を減らしたとしても、生活ができるように経済活動もしなくてはいけないし、家族介護者の心理的支援については、もっと広がるような工夫や努力も必要になる。
そうした難しく、ややこしい状況は変わっていないが、それでも、それを持続していくのが大事なのはわかっているが、やはり時々、いろいろと自分の力では無理ではないか、と思うこともある。
(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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