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『「介護時間」の光景』(85)「飛行機雲」。12.2.

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。個人的な経験にすぎず、細切れの記録になってしまいますが、それでも家族介護の理解の一助になれば、と考えています。


 今回も昔の話で、申し訳ないのですが、前半は、17年前の、2004年12月2日の話です。(後半に、2021年12月2日のことを書いています)。

「通い介護」

 1999年から、母親に介護が必要になり、介護中にいろいろとあって、2000年には、自分自身も心房細動の発作になりました。医師に、「過労死一歩手前です。もう少し無理すると死にますよ」と言われたこともあって、母に病院に入ってもらうことにしました。自分が病気にならなかったら、ずっと家でみようとしたのかもしれません。

 その頃、妻の母親(義母)にも、介護が必要になってきましたが、私は、母親のいる病院に毎日のように通っていました。そして、仕事をすることを諦めました。転院してからも、母親の状態は波があり、何の前触れもなく、ひどくなり、しばらくすると理由もわからずに、普通に話ができるようになったりしました。

 医学的には、自分が病院に通っても、プラスかどうかわかりません。だけど、そのことをやめて、もしも二度とコミュニケーションがとれなくなったら、と思うと、怖さもあって、ただ通い続けていました。これは、お見舞いといったことではなく、介護の一種であり、「通い介護」と名づけてもいい行為だと思うようになったのは、それから何年かたってからでした。

2004年の頃

 2004年の頃は、母の状態も安定していて、病院に通う頻度を少し減らしても、大丈夫なように思えていました。少し先のことが考えられそうな気がしていたのですが、2004年10月に急に母の体調が悪化し、近くの病院に転院しました。

 肝臓のガンでした。せっかく明るさが見えてきたのに、こんなことがあるんだと思いました。

 転院した、違う病院には馴染めず、ずっと元にいた「病院に戻りたい」と繰り返す母親に、どうしたらいいか分かりませんでした。

 それでも、手術はうまく行った、とその病院の医師に言われました。肝臓の患部に抗がん剤を入れることができたようです。ちょっと安心はしましたが、それからも、なかなか、元の病院に戻れず、やっと「帰ってこれた」頃のことです。

 そのころも、毎日のように記録をとっていました。

2004年12月2日

『病院に着いたら、トイレへ行っていた。
 病院のスタッフの人に連れてきてもらった。

 介護のプロは、手をとるというよりは、手首を取るんだ、と思う。

 何か、母は、かぜでだるいのだろうか。だけど、顔色は少しいい感じに見える。
 水戸黄門を少し見る。再放送だけど、かなり昔のだから、みんな若い、という反応だった。

 夕食は、ご飯。高野豆腐。魚。野菜。

 嫌な予感はしたけど、高野豆腐は「食べない」とはっきり言う。
 前は食べていたのに、どうしてこんなに嫌いになったのだろう。

 一回食べて、魚もダメだった。
 野菜だけ、食べて、だけど、食べにくい、という。

 もう少し食べないと、と言っていて、でも次は、少し、うえ、うえ、と言うように、気持ち悪いと言い出す。

 食事の介助をしながら、正直、面倒臭いと思ってしまう。

 本当に、少しの無理も出来なくなっている。
 いったん、食べられないと言ったら、本人が、もう少しと言っても、そこで止めないとダメなんだ、と思う。

 ほとんど食べずに、部屋に戻って、横になる。
 それから、そのあとに薬は飲んだ。

 時々、少し薄く目を開けて、口を開けて、もうすぐ死にそうな人に見えてしまう。

 夕食後に、病棟の内科医と少し話をした。
 肝臓の数値は、そんなに悪くない。
 歩く練習をしている。
 カリウム不足で点滴。

 そんなことを伝えてくれた。

 思った以上に、見た目より、母の体調はそんなに悪くないらしい。
 でも、そうしたら、今のこの状態は何なのだろう、とは思う。

 この前、病院で撮った母と一緒の写真。
 自分の顔が、「困った」というような表情で止まったままなのかもしれない。

 みのもんたのクイズの番組が始まったので、病棟を出る』。

飛行機雲

 母は、窓から外を見て「飛行機雲が見える」と何度も言った。
 私が、その空を見ると、見えなかった。
 ホントだったのだろうか。私が見落としただけなのだろうか。

                         (2004年12月2日)


 その後、母は2007年に病院で亡くなった。それからも、義母の在宅介護は続けながら、心理学の勉強を始め、大学院に入学し、修了し、臨床心理士になった。介護者への個別で心理的な支援である「介護者相談」も仕事として始めることができたが、2018年の年末に義母が103歳で亡くなり、突然介護が終わった。昼夜逆転の生活リズムを修正するのに、思ったよりも時間がかかり、そのうちにコロナ禍になっていた。


2021年12月2日

 今日もいい天気になった。
 青空が気持ちいい。
 
 洗濯物が今日は少ないので、明日も晴れるらしいから、もう少したまるまで、待つことにする。

柿の実
 

 柿の木の紅葉した葉っぱは、この1週間で、ほぼ散ってしまい、柿の実だけになった。渋柿だし、今年の分は一応取ったし、他に需要もなさそうなので、あとは、もう少し季節が進んでから、枝そのものをもっと伐採しようと考えているけれど、だいだい色の実は、青空をバックにきれいに見える。

 そのせいか、近所の幼稚園の子どもたちが、近くを並んで歩いていると、何人かは上を見上げて、「カキ」という言葉を発しているから、柿はメジャーな果物なのだと改めて思う。もちろん、大人も通るときに、その話題を話しているのが聞こえてくるから、そんな「話の素材」になるだけでも、意味があるような気がしてくる。

 あとは、さまざまな鳥が集まってきて、渋柿が、もしかしたら少し甘くなってくるようなタイミングで食べるのかもしれないけれど、鳥によっては、その核の部分だけを食べ散らかすように大雑把に食べると、食べ残しのまま、落下することも少なくない。

 そういうのは、困る。

 妻は、そう思っていて、食べるなら、もっと皮ギリギリまできれいに食べてくれれば、落ちても、重くないし、もしかしたら、そのまま木の枝に残るから、ゴミにならずに済むのに、といった話題に進む。

人間関係

 少し前から、予兆はあったのだけど、この1週間で、人間関係の怖さを改めて知った。それは、介護関係の仕事ではないけれど、嘘をついてでも人を陥れるようなことができる人は明らかにいる。そのことを身に沁みるように思い知らされた。

 どうすればいいのか、とも思って、嫌にもなり怖さもあるけれど、同時に、どうしてそんなような人になって行くのか、というような興味もある。

 仕事そのものの前に人間関係で邪魔されると、学生時代のサッカー部の合宿を思い出す。その時は、中軽井沢という場所で宿とグランドを予約したのだけど、そのグランドにとてもたくさんの石が散らばっているから、その石拾いをしてから、練習をしていた。


 このことを思い出させるようなことは、もう一つあった。
 とても仕事が遅い上に、それは、何ヶ月単位での遅れなのだけど、その上で、対応が不誠実な人がいて、さらにイライラする。

 どうして、そんなふうな大人に成長するのだろうか。それは、その人自身にとって、無念で恥ずかしいことではないのだろうか。
 自分のことを棚に上げて、そんなことも思う。

感染

 しばらくコロナの感染は落ち着いていて、そのために人に会うこともできたのだけど、すでに、新しい株が発生してきていて、それは、とても嫌な予感がする。

 水際対策、という言葉も聞いた気がするけれど、もうすでに国内で感染者が確認されている。

 また不安が大きくなってくる。




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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
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