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「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」㉗「迷惑をかけてはいけない気持ち」を少しゆるめる。

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 初めて読んでいただいている方は、見つけていただき、ありがとうございます。

 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。家族介護者の心理的支援を仕事にしています。

家族介護者の負担

 コロナ感染対策の緩和が言われるようになりましたが、ご高齢者に関わることが多い家族介護者の方にとっては、それほど不安の大きさが変わっていないかもしれません。

 それに、もともと、介護が始まってから、いつ終わりが来るか分からない毎日が、ずっと続いているかと思います。

 その気持ちの状態は単純ではなく、説明しがたい大変さではないかと推察することしかできないのですが、それでも、ほんの少しでも負担感や、ストレスを減らせるかもしれない方法は、お伝えする努力はしていきたいと考えています。

 時間的にも余裕がなく、どこかへ出かけることも出来ない場合がほとんどだと思いますが、この「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」シリーズでは、お金も時間も手間もなるべくかけずに、少しでも気持ちを楽にする方法を考えていきたいと思います。

 今回は、「迷惑をかけてはいけない」という気持ちを少し緩める。ということが、「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」にならないだろうか、という提案に近い話です。

 少しわかりにくく、最初は、遠回りかもしれませんが、改めて考えてもらえたら、ありがたいです。意識を変えることで、気持ちが楽になることはあるかもしれません。

「迷惑」の歴史

 今は、ほとんど疑いもなく「人に迷惑をかけてはいけない」ことは、道徳的にも常識的にも疑いようのない「正しいこと」のように考えられているのですが、実は、最初から、普遍的に正しかったわけではないようです。

 少し理屈っぽいことですし、考えること自体が疲れるし、うっとうしいかもしれませんが、「迷惑をかけてはいけない」の歴史を振り返ると、少し違う感じ方になる可能性もあります。

近代日本を研究対象とする民俗学者の岩本通弥教授(総合文化研究科)に話を聞いた。

「迷惑」の由来は「道理に迷うこと」という仏典や外典(儒教・道教以外の教えを説く書物)の用語で万葉集や平家物語でも「戸惑う」「どうしてよいか分からない」という意味で使われていた。加えて室町時代には「苦悩する」「被害を受ける」など多くの意味を背負うようになる。現在でも多少意味の振れ幅はあるが、「迷惑」が主に公衆マナーを示す際に使われるようになったのは、いつからなのか。岩本教授いわく、決定的なのは日本が近代化を迎えた明治末年以降だ。

20年に文部省内で生活改善同盟会が設立されたことを機に、「迷惑」は公衆マナーを示す文言に頻出するようになる。

背景には、日本の産業構造の大きな変革とそれに伴う政治的な動きが見られると岩本教授は言う。

通勤電車などで騒がないことや時間を厳守することなど、「公共空間」において他人に「迷惑」を掛けてはならないことが強調されるようになった。

このように、元来多義的であった「迷惑」が現在使われているような意味に絞られていったことには、戦間期という激動の時代に社会を対応させんとする政治的意図が多分に含まれていた。

 「迷惑をかけてはいけない」というのは、生活の中から自然に生まれてきたというよりは、社会を統制するための価値観として、政治的な思惑も含めて、広がってきた言葉だったようです。

強化されすぎている「迷惑をかけてはいけない」

 それと同時に、もしかしたら、「迷惑をかけてはいけない」と、本来ならば、並行して使われるはずだった「困ったときはお互い様」が、あまりにも使われる頻度が少なくなってきたことを考えても、今は、「迷惑をかけてはいけない」が、ほとんど呪いのように強くなりすぎている、という見方もできるかと思います。

 この「迷惑」という意味合いが限定されてきた、という戦間期は、第一次世界大戦から、第二次世界大戦のことなので、すでに100年ほど昔のことですから、現在の高齢者でも、生まれる前から存在する価値観かもしれません。

 例えば、若くてまだ価値観が固まっていない場合に「迷惑をかけたくない」については、こうした政治的意図が含まれるところから始まっているし、2000年代以降の20年に限って言えば、そうした意味合いのベースが消えてないところに「自己責任」や「新自由主義」が積み重なり「迷惑をかけちゃいけない」が強化されすぎているのではないか、といった説明は有効な気もします。

 そのことで、「迷惑をかけてはいけない」に、必要以上にこだわることはないのでは、と思ってくれる可能性もあります。

 ただ、特に高齢者の「迷惑をかけたくない」の響きには、そういった理屈は届かないような、そんな無力感を覚えてしまいます。それは、悪いことではないのですが、こうした価値観を内面化しているというよりは、すでに一体化してしまっているせいもあるかもしれません。

高齢者の「迷惑をかけたくない」の響き

 介護に関わりを持つようになった、この約20年でも、「迷惑をかけたくない」という言葉は、かなり多く聞いてきました。

 そして、ご高齢の方々の場合の「迷惑をかけたくない」相手は、比較的はっきりしていることが多いように思います。

 それは、多くの場合、ご自身のお子様に対して「迷惑をかけたくない」と思っているようです。

 一般的なこととして、自分が高齢であって介護をしていたとしても、そのことで、自分の子どもには「迷惑をかけたくない」という言葉の響きには、切実で、嘘がなく、否定し難い気持ちが込められているのも事実だと思います。

 そこに対して、「迷惑」の歴史や、「社会価値の内面化」という理屈を持ち出して、それが正しいと伝えても、無力な感じはします。

 自分が苦労をして歳を重ねた人が、自分の子供に対して、同じような大変さを味合わせたくなくて発する「迷惑をかけたくない」という言葉には重みもあって、そこには、美しさがあるように感じられることさえあリます。

 だから、その気持ちは尊重し大事にしながらも、だけど、こうした場合に、「迷惑をかけたくない」を守りすぎることで、自分自身に過重な負担がかかることが少なくありません。

過重な負担

 これは、ある種の脅しのようになってしまうので、フェアではないとは思うのですが、「迷惑をかけたくない」という思いが、逆に大きな迷惑になってしまうことがあり得ると考えられます。

 特にご自身に、ご子息がいらっしゃる場合に、負担をかけたくないと思い、介護についての話が出るときに、「大丈夫、心配ない」と応え続け、だけど、ある時期に、ご自分でも大丈夫と思っているのに、体がその負担に耐えられなくなり、突然倒れたりすると、ご子息にとっては、突然の出来事で、とても衝撃を受け、混乱するのではと思います。

 それよりも、それ以前から、介護について、その大変さを少しでも話していれば、もしも、それに対して、具体的な支援が難しいとしても、人に話を聞いてもらうことによって、少し負担感が減ることもあります。

 それに加えて、ご子息が、親御さんの、介護で大変な状況を知っていることで、何かが起こることを防げる可能性もありますし、または、起こった時の心の準備があるとすれば、その時の混乱や衝撃は、少しでも減らすことができます。

 ですので、心配をかけたくない。迷惑をかけたくない。も行き過ぎると、突然、大きな出来事が起こってしまうことで、かえって、それが大きな迷惑になる可能性もあるのではないでしょうか。

誰にも迷惑をかけない社会

 ここからは理屈がすぎて、さらに、うっとうしくなるかもしれませんが、「誰にも迷惑をかけない」が徹底され、世の中の隅々まで、それが行き渡るとすれば、それは、ある意味で恐ろしい社会になるようです。

 誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。
 誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。
僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

 あまりにも「迷惑をかけたくない」に、こだわりすぎるのは、こうした社会に向かっているかもしれないと思うと、ちょっと考えが変わったりしないでしょうか。

介護は迷惑ではなかった

 とても個人的な経験に過ぎないのですが、私は19年間介護をしました。
 自分の母親と、妻の母親。妻と二人で介護をして、気がついたら、その年月が経地ました。

 介護中、辛かったり、死にたいと思ったり、まるで水の中で生きているような密室的な感覚の中で過ごした時間も、長かったのは覚えています。

 だけど、介護そのものが、自分にとって「迷惑」と思ったことは、一度もありませんでした。私自身は、特に親孝行な息子、というわけではありませんが、人の手が必要になったら、できる限り、私たちが手を貸せれば、と考えていました。

 この期間中に「迷惑」だと思った相手は、母親の症状に対して明らかに判断を間違ったのに、謝りもしなかった医師や医療関係者だけでした。

 また、申し訳ないのですが、微妙に「ありがた迷惑」だと思ったのは、タイミングや本質からずれたアドバイスを「善意」でしてくる人たちでした。


 私の父親は「何かあっても子どもには迷惑はかけない」が口癖でした。その父親は、ガンで60歳前半で亡くなって、短い時間ですが、父に対して看護のようなことをしていたときも、母親の介護をしている時も、「ああいうことを言わなければいいのに」と父には思いましたが、それでも、父に対しても、母に対しても、義母に対しても、介護をするときに「迷惑をかけられた」思ったことはありませんでした。

 人は長く生きていれば、衰えたり、病気になったりするのは当然だと思っていたからです。自分ができる範囲のことであれば、時々、辛くなったり、嫌になったりしながらも、それでも、ただおこなうだけでした。

 この感覚や考えを、他の人に押し付ける気もありませんが、「子どもに迷惑をかけたくない」と繰り返す高齢者のお子様の人たちが、たとえば介護のことを本当に「迷惑」だと思うかどうかは分からない、と考えてもいいのではないでしょうか。

 私のような感覚は、介護を通して、様々な方々と知り合うようになってからも、それほど圧倒的に少数派という感じはしませんから、もし、お子様に限らず、「迷惑をかけたくない」と思うような相手がいらっしゃる場合は、その方を大事に思っていてこそ、だと思いますので、逆に、気持ちは通じやすいはずです。

 もしかしたら、その相手の方も、「困っていたら、伝えてほしい」と思っているかもしれません。「困っているのに、頼ってくれず、黙って、自分だけで頑張ってしまうこと」自体を、「迷惑」と感じる場合もあるのではないでしょうか。

 もし、介護に関して「迷惑をかけたくない」と思う「大事な方」がいらっしゃる場合は、その方に対して、今の自分の大変さを、少しでも伝えることを始めた方が、逆に、結果として「迷惑をかけない」ことになるかもしれません。

「迷惑をかけてはいけない」という気持ちを、少しゆるめてみる

 もしかしたら、「迷惑をかけてはいけない」と強く思っていらっしゃる方にとっては、ここまで述べてきた話を読んでいただいても、「それでも、誰にも迷惑をかけたくない」という考えは変わらないかもしれません。

 ただ、介護をすること自体、とても大変なことですので、「迷惑をかける」のではなく、専門家にしても、もしくは、ご家族でも、どなたかに力を借りないと、おそらくは介護を継続していくのは、ほぼ不可能だというのは、一つの常識になっていると思います。

 ですので、「迷惑をかけたくない」という気持ち自体は、とても尊重されるべきことだとは思うのですが、介護をするには、誰かの力を借りていくのが「普通」と考えて、すぐに、何をしなくてもいいのですが、まずは、気持ちを少しでもゆるめてみるのは、いかがでしょうか。

 そのことで、ほんの少しですが、気持ちが楽になるかもしれません。

 今回は、以上です。

 特に今回は、いろいろと至らないことも多いように思いますので、もし、疑問点やご意見などございましたら、コメントをいただけると、ありがたく思います。

 よろしくお願いいたします。




(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
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