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「家族介護者の方へ」⑦「介護の終わりが不意に見えて、焦りに突き動かされる時期」

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。そのおかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

「家族介護者の方へ」

 このnoteでは、これまでの介護者だった私自身の経験や、心理職として見聞きしてきたこと、学んだ事なども統合して、できるだけ一般的な事として、伝えることができれば、と考えて書いてきました。

 さらに、家族介護者の当事者というよりは、どちらかといえば、支援者や介護者の助けになりたいと考えている周囲の方々向けを意識してきました。

 それは、実際に介護をされている方々は、とても大変な毎日を送っていらっしゃるのは間違いないので、こうしたnoteの記事を読んでいる時間や余裕がないかもしれない、と思っていたからでした。

 ただ、実際にnoteを始めてみて、読んでくださるのは、当初に想定していた介護の専門家の方々もいらっしゃっるのですが、それと並んで、実際に今も介護をされている方々が読んでくださり、コメントをいただいたりすることに、気がつきました。とてもありがたいことでした。

 家族介護者には、こうしたnoteの記事を読むような時間も余力もないのではないか、という私自身の想定が間違っていたのが分かりました。こんな言い訳のようなことを書いて、失礼で申し訳ないのですが、やはり、実際に家族介護者の方へ直接伝える意識を持った記事も必要だと思うようになりました。

 これまでの記事と重複することも少なくないとは思うのですが、「介護の段階」によって、少しでも役に立つような記事を書いていこうと思っています。この「家族介護者の方へ」を新しいシリーズとして始めたいと思いました。

 7回目は、「介護の終わりが不意に見えて、焦りに突き動かされる時期」です。よろしかったら、その時期だと思っていただける家族介護者の方に、読んでいただければ、幸いです。

不意に見える終わり

 介護が突然始まり、強い混乱の時期を乗り越え、少しずつ介護生活になじみ、介護にも慣れてきて、それでも、いつまで続くか分からない現実に直面し、無力感に襲われつつも、なんとか介護を継続し、その生活に適応する時間の中で感情の動きが少なくなることもあるかもしれません。

 もしくは、突然、コントロールしにくい強い感情に振り回されることもあると思います。介護をしているご家族(要介護者)に対しても、死んでほしい、といった思いや、自分が死にたいという気持ちに心が支配されることすらあったかもしれません。

 それでも介護を続け、もちろん辛くて大変なことばかりではなく、楽しいことや嬉しい出来事もあるかと思いますが、それでも、そんな年月が重なると、本当に永遠に続くのではないだろうか、という時間に適応し、感情も含めてエネルギーがギリギリになり、自分の表情もいつの間にか硬くなっている可能性もあります。

 いつまで続くのか分からない。

 その負担感の中で、どれだけの時間が経ったのか分からなくなった時に、急に「介護の終わり」が見えることがあります。

 それは、たいていの場合、予想もしないタイミングで、不意に終わりの気配がやってきます。

「胃ろう」の選択

 例えば、介護をしているご家族(要介護者)の食欲がなくなり、医師に相談したところ、家族介護者としては、おそらくは「突然」のタイミングで、「胃ろう」の話が出ることがあります。

 それは、「このままだと余命◯年」といった言葉と共に告げられることもあるので、いやでも「介護の終わり」を意識するかもしれません。

 同時に、かなりのショックを受ける可能性もありますが、その場合も、すぐに「胃ろう」をどうするか?の選択を迫られることが多くなると思います。

 かなりの混乱の中で、人の命に関わることを決めなくてはいけないことは、それだけで気持ちへの負担がとても大きいはずです。ですから、まずは、そんな「胃ろう」の話題が出て、選択を迫られることになり、混乱しても、仕方がないので、まずはその混乱は自然だと思って少しでも気持ちが楽になったら、その第一歩だと考えられます。

 そして、様々な人に相談したり、それこそ検索したりするかと思いますが、おそらくは、これが絶対の「正解」ということはないのだと思います。

 最も相談すべきなのは、提案した医師であり、もし意志疎通が出来るのであれば、介護を受けているご本人であり、そして、主介護者であるご自身ではないでしょうか。

 本人の次に、最も要介護者である方のことをご存知なのは、介護をしてきた方だと思います。

 こうした場合、様々な方々、普段はそれほど介護に関わっていらっしゃらない親戚の方々が、ご意見を向けてくる場合もありますが、最終的には、介護者である、ご自分で決めたことが「正解」と思っていいのではないでしょうか。

 どんな選択をしたとしても、色々な言葉によって傷つく可能性すらありますが、それでも、介護してきた人の判断を、本人の次に優先され、尊重されるべきだと思います。

 そして、どんな選択をしたとしても、急に「介護の終わり」を感じられるのではないでしょうか。

介護の終わり

 こうした場合だけでなく、例えば、突然、ガンが発見されるとか、そこまで重い病気でないとしても、急に入院が必要になるほど体調が悪くなったりすると、いやでも、介護をされている方(要介護者)の方が、亡くなることを意識されるかと思います。

 人間は誰でも死ぬわけですし、高齢者のご家族であれば、死が近いのを分かっていたとしても、長く介護をされている方ほど、そのことを、どこか意識の外に置いて、いつまで続くか分からない時間に適応してきた可能性も高いと思われます。

 だから、「介護の終わり」を意識することは、想像以上に戸惑いを生むような変化だとも思います。

 そして、急に焦りのようなものが生じる可能性もあります。

 もう残り少ないとすれば、もっとしてあげたいことがある。もしくは、これまで、この介護でよかったのだろうか。そんな後悔のような気持ちになることさえあるかもしれません。

 そうした焦りや後悔や動揺は、やはりあって当然で、そして、どうしようもない現実の前に、それでも、「介護の終わり」が来ないように、という願いのような思いが湧きあがってくることもあり得ます。

 そんなこれまでの介護生活とは、また違った気持ちになることも、こういう状況になれば、自然なことだと思います。


 そして、それを認めた上で、できたら、焦りや後悔があったとしても、できるだけ、今まで通りの生活を続けるように、まずは思ってもらえないでしょうか。

 これまで過ごしてきた介護の時間だけでも、介護者にとっても、とても負担がかかって、そして、おそらくは、その時々でベストを尽くされてきたはずです。

 ですから、それだけで十分以上のことをされてきていると思います。

 難しいと思いますが、もし「介護の終わり」が見えてきたとき、混乱されたとしても、その後は、できたら、これまで通りの生活を続けるようにしていただけないでしょうか。

 現在は、コロナ禍のため、もし施設入所されている場合は、面会自体が難しくなっているかもしれませんが、それでも、現在できることを、これまで通りにされていくのは、どうでしょうか。

 ただ、症状の変化によって、変えなくてはいけないことがあるのであれば、それに適応していくとしても、焦らず、変えていかれるのはどうでしょうか、と思います。

それでも、何かしたい時

 とは言っても、例えば旅行に行きたいとか、施設にいるのであれば、家に外泊したいとか、そんな気持ちになってもおかしくはありません。

 そんな時は、それが可能な場合は、十分に気をつけて、できたら、介護が楽な宿泊施設を使う方がいいのだと思います。最近は、色々な施設があるかと思いますが、個人的に知っている範囲に過ぎませんが、旧「かんぽの宿」の多くは、バリアフリーの施設になっていると聞いています。

 ただ、2021年の10月に「かんぽの宿」は売却されたので、確認が必要かと思いますし、別の宿泊施設へ問い合わせの時に、バリアフリーや、症状によっては、お風呂にリフトが使える施設もあるので、聞いてみてもいいのかもしれません。

 また、現在はコロナ禍により、施設入所されている方の場合は、外出自体も難しいかと思います。

 それでも、例えば、この著者が書かれているように、外から見たら、普通の「散歩」のように見えるそれほど長くない時間でも、介護者と、介護されている母親にとって、かけがえのない貴重な体験になることが書かれています。

 そんなふうに、ふとした、日常的なことであっても、普段と少しでも違うことがあれば、とても大事な思い出になるように思います。

 もちろん、こうしたある種、奇跡的な時間を人為的に作り出すのは難しいかもしれません。

 それでも、大変だと思いますが、いつも通りに介護を続けられている中で、何かしらの特別な時間が訪れることは少なくないのかもしれません。

誰かを呼ぶとしたら

 そんな場合でも、もっと切羽詰まった状況になり、医療スタッフから、「会いたい誰かを呼んでください」という状況も考えられます。

 もしも、その介護を受けている方(要介護者)の方が、どなたかに会いたいと望む場合は、できたら、その願いを叶えられた方がいいのかしれません。それでも、その方に介護者が会いたくない時は、どうしたらいいのか、私にも分かりません。

 ただ、普段、介護をされている方が、介護をしている方(要介護者)のことを本当に考えて、その上で、ご自身の負担感なども考慮に入れ、そして出した結論であれば、それで間違いないのではないでしょうか。


 ただ、その一方で、ご本人に、そんな希望を尋ねることができない場合は、介護をしている方が会わせたい人に会わせるということを、シンプルに考えれば、とも思っています。それが、介護者にとってとても負担になるときは、無理をしない方がいいかもしれませんが、それが、後になって、ご自身の後悔にならないかどうかも含めて考えていただければ、と思います。

選択の準備

 ここからは、実際に命が危ない場合についての話なので、もし、そういうことを考えたくない方は、読まれない方がいいと思いますので、ご注意ください。



 これは、個人的な体験に過ぎないかもしれませんし、コロナ禍の時は、すでに選択もできないかもしれませんが、介護が必要な方(要介護者)が急病になり、救急車などで運ばれる時に、確認されることがあるかもしれません。

 人工呼吸器がある病院にしますか。そうでない場所にしますか。

 ここで、すでに延命措置の選択をすることになりますが、そのことを急に問われると、ただ動揺してしまうのかもしれません。急だと、どちらも選べなくなりそうなので、もし、介護の終わりが見えたと感じた時には、まずは、そういう時を想定して、ご自身だけでも前もって考えてもいいのかもしれません。

 また、入院して、余命がわずかのような場合には、最期の延命措置まで聞かれる場合もあります。心臓マッサージも、とにかくおこなってください、とお願いすると、ご高齢の場合は、あばら骨の骨折もあり得ますので、私自身は、断りました。

 そして、本当にいよいよの電話があって、それは夜中でしたが、病院側のスタッフの方は、家族が来てくれるまでは、とにかく命をつなぐための措置を話してくれていたようでした。(今も難しい言葉で覚えていません)

 ただ、その措置が体に負担がどれくらいかかって、どの程度辛いかは、本人以外は誰にも分からないと思い、「とにかく無理させないでください」と電話口で伝えました。それもあって、夜中の2時にやっとタクシーがつかまって、病院に着いた時は、すでに息絶えていましたが、それも、仕方がないと思えました。

 ただ、これは、あくまでも個人的な経験なので、これに従う必要はないですが、もしかしたら、参考になるかもと思い、お伝えしました。

 今回は、以上です。

 次回は、「家族介護者の方へ⑧介護終了直後の虚脱期」の予定です。




(他にも介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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