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『「介護時間」の光景』(140)「さば」。1.18.

 いつも読んでいただいている方は、ありがとうございます。
 そのおかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて、読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

(いつも、この「介護時間の光景」シリーズを読んでくださっている方は、「2002年1月18日」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います)。

「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことで、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年1月18日」のことです。終盤に、今日、「2023年1月18日」のことを書いています。

(※ この『「介護時間」の光景』シリーズでは、特に前半部分の過去の文章は、その時のメモと、その時の気持ちが書かれています。希望も出口も見えない状況で書いているので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば幸いです)

2002年の頃


 個人的なことですが、1999年から母親の介護を始めて、その途中で、私自身も心臓発作を起こしたこともあり、仕事をやめ、義母の介護も始まりつつあり2000年の夏には母親に入院してもらいました。

 私は、毎日のように2時間ほどかけて、母の病室へ通っていました。帰ってきてから義母の介護をする日々でした。ただ、それだけを続けていました。

 自分が、母の病院に通っても、医学的にプラスかどうかは分かりませんでした。でも、通わなくなって、二度とコミュニケーションが取れなくなったままになったら、と思うと、怖さもあって、通い続けていました。

 この病院に来る前、別の病院の医療関係者にかなりの負担をかけられていたこともあり、やや大げさに言えば、白衣に、怖さすら感じていました。

 そういう気持ちは、新しい病院に移り、1年半経って、少しずつ病院を信頼するように変わっていたのが、この2002年の1月頃だったかもしれません。

 そのころの記録です。

2002年1月18日

『介護は変わらず、続いていたのだけど、ヘルパーの講義は、もしかしたら、家でしている介護などにも役に立つかもしれない、といったことを思って、何度かハガキで応募していた。

 だけど、何度も落選して、なんとなく諦めていたら、初めて当選して、今日から3級ヘルパーの講義が始まる。

 駅から、歩く。
 みんな自転車でガンガン走っている。

 午前8時過ぎ。

 義母の介護を夜中にしているから、こんなに早い時刻に出かけるのは久しぶりだった。

 かなり古い鉄筋コンクリートの建物で、その4階。階段しかないので、登っていく。そして、古い会議室。石油ストーブが4つもついている。思ったよりも広いけれど、少し照明も暗い。

 この部屋に講義を受ける人たちが、すでに集まっている。ほとんどが女性。それも、自分よりも年齢が上の方が多く、その中で若い人で、自分と同世代くらいに見えた。男性は、自分を含めて、3〜4人くらい。

 男性の中では、私でも、「若手」のようだった。

 講義は最初、少し退屈のようだった。
 でも、時々、エンジンがかかって、全体だと、結構、興味深かった。

 最初は、積極的に話をするわけではないのだけど、手続きのことで、少し周囲の人と話ができて、ちょっとホッとする。

 昼までに3時間の講義。

 昼になると、外へ出ても、飲食店がそばにない。だから、 コンビニで弁当を買った。

 午後の講義。
 女性の保険関係の講師。時々、熱が入る。

 家族で介護をしている人は、50代で、親が70代から、80代が多いと聞いて、自分は40代の最初だから、まだ早かったのか、と思う。

 病院での嫌な思いのことも、講師がしゃべっていて、それで、自分の経験をリアルに思い出してしまって、気持ちも乱れるが、でも、あれはやっぱり病院側がおかしかったんだ、と思いながら、話を聞いていたから、自分も嫌な顔をしていたと思う。

 そうしているうちに、午後3時半になる。

 学校を思い出す。

 そして、今、講義を受けているヘルパー3級の上に、2級、1級。さらにはケアマネージャーがいる。階級が作られているのだろうかと、微妙な気持ちにもなったり、それならば、自分ももっと頑張ろうかといった変な向上心がちょっとわいた。

 講義のとき、周囲には寝ている人もいたけれど、でも、今日は、結構面白かった。

 そういう中で、精神対策もやった方がいいのか。そうなると精神科医なのか、などと思って、もう、何か分からなくなる。

 でも、とにかく、2級のヘルパーまでは、とろうと思う。

 帰りに、そばにいる人は、ストーブの灯油を入れてください、と指示される。

 自分が座っていた隣に燃えていたので、スイッチを切り、火を消してから、灯油を入れた。

 久しぶりに、その作業をしたから、なんだかグズグズしてしまって、少し灯油をこぼしたりして、それを、またふいたりしているうちに、誰もいなくなった。

 黒板を消す係もあるし、本当に学校だと思う。

 こういう枠の中での努力は、わかりやすいけれど、本当に仕事もちゃんとやりたいと思った。今は、完全に無職で、ただ介護をしているだけだけど。

 やっと、歩いて、ちょっと時間がかかったけれど、朝降りた駅に着いた。

 今日も講義の途中で、ちょっと心臓がやばいかも、というような瞬間もあったのだけど、うれしかったのは、社会にいる感じがしたからだった、と思う。

 久しぶりに努力の仕方がわかりやすい場所にいることも、なんかうれしかった、のと同時に、少し焦りもあった。

 でも、自分の本分は、今は無職だけど、書くことは忘れたくないような気持ちもあって、だけど、昔、福祉の仕事をするのを、考えたことも思い出した』。

さば

 3級ヘルパーの最初の授業。まず、受講者に登録の紙が配られる。名前や年齢など基本的なことばかりだった。

「正確に記入してください」。

 係の人が、話している。そして、少し間をあけて、決められたセリフのように言葉を続ける。

年齢を実際より若く記入したため、本人確認が困難になった事例が複数ありました」。

 少し笑いが起きる。
 こんなところまでサバをよむんだ、とちょっと感心もする。

 かなり古いビルの1室。窓からは古い体育館の屋根が見える。ここはアントニオ猪木が、新日本プロレスの旗揚げを行ったところだ、と思って見ていた。

                         (2002年1月18日)


 この生活はそれからも続き、本当に永遠に終わらないのではないか、と感じたこともあったのだけど、2004年に母はガンになり、手術もし、一時期は落ち着いていたが、翌年に再発してしまった。そして、2007年に母が病院で亡くなり、「通い介護」が終わった。

 義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2023年1月18日

 久しぶりに晴れた。

 冬の雨は寒くて、よけいに暗く感じていたから、青い空は気持ちよかった。

 洗濯も始められる。

柿の実

 庭の柿の実は、渋柿で、ついこの前まで、まだダイダイ色の実がけっこう残っていて、今年は、いつまであるのだろう、鳥が食べないのだろうか、と思っていたら、気がついたら、全部なくなっていた。

 ヘタだけが、たくさん残っていて、全部が黒く見える。

年賀ハガキ

 今年も年賀状を出してくれた人が大勢いて、それも一段落したと思うので、妻が、年賀ハガキの抽選の確認をしたい、というので、その番号を検索してプリントアウトした。

 今年は「お年玉年賀ハガキ当選番号」は、1等から3等までで、いまだに自分の記憶だと、もっと年賀状が大量に出されていた時代には、確か、5等くらいまではあったはずだけど、と思いながらも、今は、年賀ハガキ自体が、少なくなっていることを実感したりする。

 おそらくは合計で100枚は届いているはずで、その番号を、コタツの隣で、妻が一生懸命、照らし合わせてくれたのだけど、今年は、1枚も当たっていなかった。いつもは、1枚くらいは「切手シート」が当選するので、珍しいことだった。

 今年は、ツイているのか、それとも逆なのか、おそらくは、そういうことは関係ないのだとは思う。

郵便局

 生活費を下ろすために、郵便局に行かなくてはいけないけれど、ずっと利用していた地元の郵便局は、いったん壊して、更地にして、新しく建てるために、当然だけど、今は使えない。

 だから、隣町の郵便局に行くことになるけれど、3カ所ほどあって、どこも自転車で行くような距離で、しかも、これまでずっと利用したことがないので、行くこと自体が、ちょっとおっくうになる。

 今日は、駅までの道を進んで、最近、利用したことのある、右でも左でもなく、まっすぐ進んだ先にある町の郵便局に行くことにする。

 坂道を登って、下って、また登って、広い道路を渡る。それから、隣の駅の前の道路を右に曲がる。妻に聞いたのは、ここからしばらく行くと、左側に郵便局があることだった。

 途中で、昔、何度も行って、そこから移転したカフェがあった場所を見て、あれから何年も経ったなどと思う。それから、進学塾や、整体や、占いの看板を通り過ぎて、右側には何かの工事をしている学校があると思ったら、郵便局があった。

 ATMの機械と、他の場所を区切るようなついたても壁もなく、だから、暗証番号などを押すときに、つい周りを見たりして、変な緊張もする。それでも、無事にお金を引き出せて、また自転車に乗って、坂道を下って、上がって、家に戻る。

 それから、メモを持って、近くのスーパーへ買い物に出かけて、帰ってきた。

 そのあと、妻と一緒に、おやつの時間にした。録画していたドラマを見る。

 外はだんだん暗くなっていく。




(他にも介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。






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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
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